劇団どろ公演『メアリー・ステュアート』考

 周知のとおり、いま「中東」では、宗教対立(ユダヤ教を含むキリスト教世界とイスラム教世界との)を背景に彼の地の利権(石油及ぴその油送路)をめぐって、第二次大戦直後から半世紀以上も続いてきた紛争が、血で血を洗う僧悪の様相を呈している。

 他宗派に対して、野放図にと言っていいほど寛容な仏教(日蓮宗の一派を除く)を主に信奉するわが国の民衆には、とうてい理解しがたいことなのだが、他宗派排除の戒律は、イスラム教にかぎらずキリスト教も、それぞれの内部宗派においても、峻厳である。国教をキリスト教とする国々における、カトリックとプロテスタントの宗教対立の激しさは、先頃ようやく沈静化した「北アイルランド紛争」を例にとるだけで十分であろう。カトリック総本山=ローマのヴァティカン・聖ペテロ寺院を初めて訪問する日本人観光客が驚かされるのは、この寺院の祭壇装飾の一つ聖ペテロが地球を踏んづけ聖書を読んでいる彫像に違いない。その踏んづけている足のカカトの下にあるのが、イギリスだからである。キリスト教を「愛の宗教」だとするのはとんでもない誤解で、「異端(他宗派)」に対する徹底した憎悪は、われわれの想像をはるかに超えるものであることを、この彫像は教えてくれる。このとき以来、ローマ教皇のイギリス訪問は絶えて久しかったのだが、「寛容の人」聖ヨハネ・パウロニ世のイギリス訪問で、英国聖公会とローマ法王庁との和解がなったのは、実に1982年5月つい22年前のことであった。

 イングランドのカトリックとの決別は十六世紀初頭に始まる。1538年のヘンリー八世による英国聖公会独立は、カトリック勢力にとって大打撃であった。さっそく王の死後「反動の嵐」が吹き荒れる。カトリック復活のためスペイン王フェリペニ世と結んだメアリー一世の、狂信的プロテスタント大弾圧がそれであった。このときヘンリー八世の私生児エリザベスは、母親を殺され自らもロンドン塔に幽閉、その命は風前の灯であった。しかし、世継ぎをもうけないままメアリー一世が亡くなったことが幸いして、紆余(うよ)曲折の末に王冠を手にする。エリザベス一世は、自身の権力基盤が安定するまで、プロテスタントとカトリックの共存を認めたため、スコットランド王ジエームズ五世の子メアリー・ステュアートは、カトリック教国スコットランド女王となる。しかし、スコットランドにも宗教改革の波が押し寄せ、メアリーはエリザベスを頼りイングランドに逃れたのだが、カトリック教国フランス・スペインの干渉や臣下のカトリック教徒による「エリザベス暗殺計画」に関与したとして、メアリーはほどなく幽閉される。劇『メアリー・ステュアート』は、彼女の幽閉から処刑に至るまでの物語である。つまりこの芝居の根底には、第一に憎悪にみちた宗教対立があり、第二に新興国イングランドの「黒人売買のうえにかち得た金銀財宝」を手にしたエリザベスと、私生児とは違い「正統な王位継承権」をもつメアリーをかつごうとする王侯たちの、国の利権をめぐる骨肉の争いがある。

 同名戯曲で有名なのは、ドイツの詩人=シラー作のもので、私は東京国立劇場で文学座のを、「神戸労演」例会で俳優座のを観ているが、叙情あふれる、随分以前の流行語をかりるならば「ウエット」な舞台であった。この度のイタリアの作家=ダーチヤ・マライーニのものは、「シラーの翻案」と聞いたが、まったく正反対の叙事的で簡潔、「ドライ」な作品に仕上がっていることに、まず驚愕した。とかく哀愁の情感に陥りがちな「悲劇の女王の物語」を、叙情的枝葉を取り払うことによって、「信教と利権をめぐる王位継承の叙事詩劇」という風に淡々と展開する。そしてその故にであろう、冒頭引用した「中東」の現実とダブってこの劇がみえたのは、私だけであろうか。

 「信教」の問題は、「中東」では、ユダヤ対イスラムの対立のほか、おなじイスラム内部の宗派、スンニ派・シーア派さらには「原理主義」派入り乱れての内部抗争があからさまにみられるのは、周知のとおり。あたかも、16世紀のイングランドにおける、カトリック対プロテスタントのように…。

 「利権」をめぐっては、以下の台詞(せりふ)がシラーの原作にあったかどうか失念したが、今回のマライーニ作の舞台では、エリザベスがさらりと言ってのける、「あのアメリカ大陸にわれらの文明を押し広げる…」という言葉が、私の胸にはグサリとくる。ベトナム戦争のとき、井上ひさしは、あるアメリカ出身のオーストラリア作家と以下のような対話をしているが、あの台詞の瞬間、私はその発言を思い起したからである。

 「アメリカ人というのは、自分たちの信奉する『デモクラシー』とは違う生き方で生きている人たちが世界のどこかにいることがすごく気になる国民で、しかもその気になる人たちが力を持ってくると恐怖を感じる国民である。そういうところと戦争して徹底的に打ち壊し、戦争が終わると今度は徹底的に援助して、自分たちと同じ『デモクラシー』を植えつける。それがアメリカ人のやり方である。彼はそう考えた。」

 この「アメリカ一国主義」が、いま「中東」ばかりか世界中で猛威をふるっている。そしてわが国の首相は、それに「懸命に追随」しようとしている。今回の舞台における、エリザベスとメアリーとの「利権」をめぐる確執には、シラーの前作にあったような情緒的な煩悶や懊悩はカケラほどもない(少しく雰囲気はただようが)。そこにあるのは、「中東」でのアメリカの赤裸々な「利権」収奪にも似た、覇権をめぐる「ドライ」な綱引きである。もっともあの時代は、アメリカが植民地で「イギリス一国主義」のエリザベスの餌食にあったことが、なんとも皮肉なことではあるが…。

 合田演出は、細密微妙にして簡素な演技で知られる能にも似た手法を用いて、あの二人の女王の対決」を、見事な叙事詩劇に仕上げていた。出演者もそれに応え、余分なもの」を削ぎ落とした簡明な演技で、重複する役柄につき、それぞれの存在感を示すに足る十分な演技を披露してみせる。私は、年に数回、湊川神能殿はむろんのこと、大阪の大槻能楽堂やときには京都の観世会館・大江能楽堂まで足を運んで、お能を楽しんでいる。簡潔な表現の謡(うた)と象徴的な演舞の背後に「深遠な世界」を描きだす能の技(わざ)が、この「信教と利権をめぐる王位継承の叙事詩劇」に、ぴたりはまってみえたのである。

 そこからみえてくるのは、先頃の「神戸労演」例会「巨匠」の「A」西川明の演技にも似た、「乾ききった演技」(私の造語「異化効果」や「非感情移入表現」など既存演劇用語を用いたくないので)が表出する、底深い憎悪と対立の「世界」だけである。木下順二『巨匠」の「A」は、あの芝居では「演出家」であってはならない。わざわざ英文学者の劇作家らしく「不定冠詞=a」とするかぎり、つまりは『巨匠』がこれから演じる、あるいは演じ終わったばかりの「世界」を、情感を殺し淡々と表出する「ある人物(歴史の傍観者)」になりきらねばならない。「労演」役員の一人に、あの西川明の「乾ききった演技」に「不満」を洩らす人がいたが、彼には、「歴史の渦中にあるものには歴史の真実は見えない。むしろ歴史の外にあってそれを『傍観』する者だけに、歴史の真実は見えてくる。」という、木下順二の畢生(ひっせい〉の歴史観が理解出来ないのだと思う。合田演出の『メアリー・ステュアート」からは、同様の歴史観がはっきり見て取れる。あの舞台にあったのは、メアリーとエリザベスの確執ではない。二人の俳優の、信教と利権をめぐる女王同士の底深い憎悪と対立の「世界」が、能を思わせる「乾ききった演技」だからこそ、あざやかに浮かび上がったのである。「演劇は世界を再現できるか」というブレヒトの問いかけに、見事応えてみせた舞台であった。さすが、ブレヒト芝居に執着してきた合田演出ならではの舞台であり、それに見事応えた役者の演技であった。この際、台詞の多少のトチリは、問題ではない。あのお二人の対決の「世界の再現」に、拍手を送ろうではないか。

 [ただ、「とるに足らない」と言うべき所を「と『り』に足らない」と発声したのは、クセになる恐れがあるのでご注意を(二日目マチネー所見)…。]

 例によって蛇足ながら、この劇から触発された「話題」を一つ。先月末、渡欧を前にした皇太子の記者会見での、「彼女(皇太子妃)の人格を無視するむきもあったやに思う」発言から連想することである。

 驚きあわてた官内庁長官は、「思い当るふしはないのでご帰国後真意をお尋ねしたい」との談話発表をし、「国民に疑惑を投げかけた点について釈明するように」との天皇の発言に促され、帰国後に皇太子は書面で、「(人格無視発言は)具体的な事柄をさしたものではなく…彼女の心情を察してこれ以上この話題をひろげぬよう願う」旨の発表をする。さらに天皇の、「マスコミの『皇室のプライベートな話題』報道についてはこれを無視してよい」旨の発言で、宮内庁記者クラブはじめマスコミは、「これにて一件落着」を決め込んでいるかにみえる。

 私自身はどうでもよい問題だと思っているが、国民大多数は、「愛子さま」誕生の直後から、宮内庁筋から出た『皇室典範』「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」を改正「女帝を推戴できるようにするのは如何」という話題をとらえた、マスコミ論調に関心を寄せているのである。この「将来の国家の『象徴』」に関わる「お世継ぎ問題」は、私ごとき人間を除く国民大多数にとって、「皇室のプライベートな問題」ではない。宮内庁記者の質問にのせられたとはいえ、昨年十二月の「そうなれば(『皇室典範』改正不可能なれば)秋篠宮の第三子に期待するほかない」長官発言が、皇太子妃の神経を悩ませてしまったことは、誰の目にも明らかだからであろう。

 エリザベス一世は「処女王」を宣言、「イングランドを終生の夫とし」その利権拡大のために全力を尽くす。後世「イングランド・ルネサンス」と呼ばれる文芸復興を奨励、シェイクスピアなど文芸家を多数輩出させその演劇活動を積極的に支援した。スペイン「無敵艦隊」を撃滅、アメリカ「ヴァージニア(処女王の地)」を開拓、東インド会社を設立してアジアにも進出、ドレークの「海賊商法」で世界中の富を手中にした。だが、皮肉なことに「処女王」に世継ぎがなかったため、仇敵メアリーとヘンリー・ダーンリーの子ジェームス一世に、イングランドをスコットランドごと手渡さなければならなくなる。

 イギリスは女王を認めているので、王統の第一子は女子でもかまわない。しかし王統を絶やさないために王家の側近貴族のなかから配偶者が選ばれる。一世はそうであっても、二世のエリザベスには「処女王」が許されない。マウントバッテン卿は、そのために添わされている。そしてその第一王子のチャールズは、たいへん出来が悪いようだが、いま以上の「悪業」を重ねなければ、王位に就くであろうことは確実である。

 ならばわが「皇統」はどうなるか。「女帝」のための『皇室典範』改正は、政府発議・国会議決を経なければならないが、おそらくは誰も手をつけられまい。なぜなら、わが国の天皇は、戦後「人間宣言」によって神格を失ったが、宮中三殿=賢所・皇霊殿・神殿を守る神官であることに変わりはない。神社本庁の規定によれば、神社神道の神社・神宮の宮司(戦前は「神主」と称す)は男子世襲であり、権(ごん)宮司(戦前は「副神主」か)家の男子第一子は、宮司家に男子出生のない場合にのみ、宮司家を継ぐことが出来るが、さもなければ権宮司家を世襲するしかない。宮司家に世継ぎの男子なき場合、その家は宮司家としては廃絶になる。ならば、天皇家にのみ「女帝」神官が許されるか。神社神道の根幹に関わる、一大事出来(しゆったい)は必至となる。例の森前総理の「日本は『神の国』発言」が、自民党最大の後援母体の一つ、神社本庁が中心となってつくられた「大日本神道政治連盟」総会席上でなされたことを、忘れてはなるまい。

 またまた脱線するが、万が一にも「女帝」神官が皇室に出現すれば、大相撲大阪場所で「女性知事」が土俵上で知事賞贈呈を行うことも、一挙に解決するかも知れない。なぜなら、(財)日本相撲協会が「女性知事」が土俵に上がることを拒否するのは、その場所が古式に則った神事=神前相撲を執り行う場所だからである。その勝負を取り仕切る「行司」は、同時にその神事をつかさどる神官なのである。

 かりに『皇室典範』改正なって、「女帝」が出現したとする。ならば皇統を絶やさないために、その婿殿をどこから迎えるか。現在の宮家は昭和天皇から直系の親族しか許されないから、そのような宮家からの婿入りでは、血が濃ゆくなって正常児が生まれない危惧がある。かつては、古く奈良時代から江戸時代に至るまで、天皇家から分家した「宮家」が数多く存在し、それらが「皇族」を形成した。さらに皇室側近の家柄「公卿(くげ)」たちも多数いた。戦後は旧「宮家」も廃絶されて、すでにない。いま高階(たかしな)鳥類研究所長の高階氏が、もっとも古く枝分かれした元「高階宮家」の末裔(えい)とされるが、その後は元「伏見宮家」が北朝の末裔から、下って江戸時代初期に多数の「宮家」が分家誕生するが、それら「宮家」があったればこそ、昭和天皇妃の香淳皇太后もそのうちの元「久邇宮(くにのみや)家」から輿入れ出来たのである。江戸期に分家した「宮家」のなかでは、元「竹田宮家」の竹田氏が、今はIOC委員として活躍している。

 明治天皇の正室=昭憲皇太后に世継ぎ男子がなかったため、「公卿」のうち「台湾征伐」で名を上げた柳原前光(やなぎはら・さきみつ)の妹、柳原二位局(にいのつぼね)が選ばれて側室に入り、その男子が大正天皇であることは、年配者にはあまねく知られている。古来からの天皇側近の家柄「公卿」つまり「華族」も、戦後廃絶されたが、元「柳原公」は現(財)霞会館(旧「華族会館」を戦後改名)理事長の柳原氏である。霞会館会員名簿によれば、元「宮家」をはじめ、「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」と称した元「華族」たちも、理事・評議員その他の役職に、ずらりその名を連ねている。現皇室を取り巻く「宮家」も「華族」も、かくして「健在」なのである。

 柳原氏は、元「華族」の筆頭である。イギリス王室のマウントバッテン卿に相当する家柄だが、はたして今頃、その曾孫(ひまご)が「女帝」のお婿さんを承諾するかどうか。妃殿下同様「純粋高貴な」民間人を招くとなれば、『皇室典範』に言う「皇統」をどのように解釈すればいいのか、問題が生じよう。

 このように、わが国が仮に「女帝」を置いたとしても、それはそれで、その婿選びが大事(おおごと)になることだけは、想像にかたくない。

 権力の座=王位の継承をめぐって骨肉の争いがくり広げられた16世紀イングランドとは違い、主権在民の国家の「象徴」にすぎないとはいえ、わが皇太子妃の神経を悩ませるのが「お世継ぎ問題」であるのは、洋の古今東西を通じて少しも変わっていない。

 劇団どろの『メアリー・ステュアート』上演が、こんな「話題」と何ら関係のないこととは知りながら、ついつい蛇足を並べたててしまった。悪しからず。あの劇に触発されて、ときには一見「謹直そうな」合田さんと、「不謹慎きわまる笑い話」に興じたくて…。了