私は何時も<どろんこ塾>の卒業公演を楽しみにしています。それだけにこれからは、新しい役者さんの名前も記録し、どう育ち、成長されていくかを観劇の楽しみに加えたいと思います。
(今回の「さらだ殺人事件」は)訳もなく面白い芝居でした。殺人事件と言いながらも、どの場面からも悲惨や恐怖が感じられない。最近の言葉(80になる私には最近です)でブラックユーモァーというのでしょうね、台詞のやりとりの一つひとつには、さしたる違和感がないのに、どこか辻褄の合わない奇妙なズレが、意外なほどの面白さを醸し出していました。しかし、その面白さを観客の前に如何に引き出すかがこの芝居の難しさですから、新人の皆さんは大変だったでしょう。それに、映画なら観客はあくまでも遠くにいる傍観者ですが、芝居の観客は目前でその息づかいすら感じながら演技しなければなりません。その演技者と観客との狭い空間をはさんだ緊迫感を、芝居の醍醐味にするまで大変でしょうが頑張って下さい。
◆初日では、何となく弱々しかった夫、戸惑い気味の妻。二人の不安が入り交じった演技も、舞台なれしてきた6日の公演では、安心して見られるほどに板についていました。
それでも、あえて生意気を言わせてもらえば、もう少し台詞に起伏をつけ、声を高めたり、荒げたりするだけではない、語調の強調でも感情表現に一工夫欲しかったです。そうすればもっとこの芝居の面白さを観客に伝える事が出来たのではないでしょうか。
◆6期生の丸山さん、7期生の白根さんからは、さすがに先輩らしい一日の長が感じられました。台詞につまっても動じず、堂々たる演技はよかったです。
新人の永田さん、大谷さんの成長振りを、次の舞台で楽しみにしています。相変わらずの無礼・失礼は平にご容赦願います。(T.M)
土曜日の昼だったのに、いつもの劇団どろの公演よりは入りが悪い。20人いたかな。3分の1が顔見知り。
裸電球の電灯が下がった部屋に、喪服姿の夫婦が帰って来る。いきなり、誰もいないのに二人とも「ただいま」と言ったのはおかしい、といった会話が始まる。夫が部屋の中まで靴を提げてきたのもおかしい、玄関にあった猫のトイレを持って来るのもおかしい、その中で古新聞に包んだどびんを金づちで割るのはなおおかしい、という具合に、極めて日常的な世界で、少しずつ異常なことが起こっていく。ここらの何とも言えない雰囲気はよく出ていたと思う。
その雰囲気を作り出す一つの要因は台詞の、日本語独特の言葉遣いだ。「そんなにマサエのことがあれでしたら…」「こういうものは片づけて出るもんだよ。洗わないまでも、ちょっとまとめてそっちの方へあれしとくとかさ…」 最初ちょっとイントネーションが気になったが、そのうち耳慣れてきて、言葉がすっと入って来るようになり、この「あれ」などが、日本的な日常性を表すのに効果的だった。
ところで、二人の会話の中から、今は保険金のために殺した娘の葬式から帰ったところだというのが分かってくる。それこそこれは非常に異常な状況のはずなのに、二人の間で問題になるのは、上に挙げたような実に些細な「おかしい」ことなのだ。もちろん、葬儀場で香典返しの業者から見本にと茶器セットをもらったから家のどびんを割るという夫の行為も決して普通とは言えないが、金のための子殺しという極めて大きな異常さの前では些細なことである。それに二人は気づいていないのか、事件をなるべく自分たちの意識から遠ざけようと無意識に努力しているのか、とにかくそのズレのようなものが先ず第一に面白かった。
二人は、特に妻は、今は「普通に」生活して、怪しまれずに保険金が下りるのを待つのだと言う。この「待つ」ことに合田君は「演劇講座」での『ゴドー』との類似性を感じて、この作品を取り上げる気になったようだが、私はむしろ次に出て来た「力・支配」といったテーマから、ピンターを思い出した。帰宅してから、初演(86年11月)の批評を『新劇』、『テアトロ』、『悲劇喜劇』の3誌で見たが、このテーマに触れたものはなかった。
第一の支配関係は、香典返しの業者と夫婦の間に成立する。香典返しなどしないのに業者から見本をもらってしまったことから、香典返しをする先の名簿を取りに来られるのを恐れる破目になる。もらったのはたかが茶器のつもりの花瓶なのだが、営業の人が来た時に二人は隠れて姿を見せない。この恐ろしさは、隠れていれば済む程度でそれほど大したことはないが、やがてもっと大きな問題が起こって来る。夫には今の閉塞状況を話し合える友人がいないのを知った妻は、郵便局の前に立っていた男をオトモダチとして連れて来る。もともとの夫婦間の力関係が「支配」関係だったのかもしれないが、随分と妻の側の一方的な行為だ。当然ながら夫は拒否し、男二人が実際に力づくで揉み合う。この「暴力」の部分も極めてピンター的なのだが、そこの迫力はあまり感じられない。演技の問題もあるのだろうが、例えば先の劇評のどれもこのエピソードどころか、オトモダチの存在そのものにも触れた記述が一切見られないことを思うと、戯曲、あるいは観客(批評家)の、あるいは双方に問題があって、このテーマが深められていないのだろうか。
この揉み合いの後、二人は共に「私は殺さなかった」ということでオトモダチになるのだが、ここでは余計なことだが、「殺した」ことを立証するより、「殺さなかった」ことを立証する方が難しいと言われていることを思い出した。
そこから話は大分飛んで、この第三の男が壊れたラジオを持ってやって来る場面になり、ここでも夫婦は隠れて男が帰るのを待つのだが、出て来た夫婦の会話から今やその生活がこのオトモダチに支配されてしまったことが明らかになる。木曜日ごとにガラクタを携えて訪問するこの男に脅えているのだ。オチは、このラジオが報じる「サラダを3パック買って来るように言われた夫が、1パックしか買って来なかったために妻に殺された」事件を聞いて、夫がその殺人には少なくとも理由があった、しかしわれわれのにはないと言う。それに対して妻は「保険金がおりるのをじっと待っているのがその理由だ」と言うところで終わる。しかし正直言ってここの部分はあまり説得力がなく、面白くもなかった。理に落ちるというか、先ず「理由」って何だろう、といった疑問が湧くし、最初のあたりで夫が何度も「私のやったことは全部説明がつくだろう」と繰り返していたのが思い出され、それとの関係はどうなのかと考えたりもした。
論理の上では理由になっても、倫理的道徳的には理由にならない理由で殺人が行われる恐ろしさと、日常生活の中で理由とは言えない理由で生じる恐ろしさ、それがもう一つ鮮明に伝わってきて欲しかったと思う。
ここらで初演の批評を見てみることにする。先ず『新劇』1987.1 鴻英良 から(山崎哲の『エリアンの手記――中野富士見中学校事件』の評に続いて)犯罪の質が変わってきた…この二人の劇作家の舞台を続けて見ながら、犯罪を扱うドラマの質もそれに見合った形で変化し始めた……奇妙な芝居…犯罪の匂いがまったくといっていいほど感じられなかったことが、私には驚きだったのだ。…この夫婦の周辺は、それにしても、なんと奇妙な静謐さに満たされているのだろうと思うと、ほとんど感動的ですらある。……夫の方は、必要以上の几帳面さで、細部だけの論理性にみちた奇妙な振るまいをとり続けるのである。角野卓造が舞台でとるこうした振るまいは、笑いを誘わないわけにはいかないが、この常識からのはずれ方には、透明感があり、これはちょっと爽やかなおかしさである。しかし、いずれにしてもこの程度の奇妙さは、凶悪殺人犯のそれとは到底思えない。ちょっとなにかあったんじゃないかと思わせる程度でしかないのだ。そして「その程度でしかない」ということが、この舞台の奇妙さを物語っているのである。(日本的な共同体と一切関係を断った別な共同体の創出を夢見る逆ユートピア)
次に『悲劇喜劇』1987.2 熊井宏之・小野正和
K:今月はこれをいちばんおもしろく見ました。…トレープレフが死んじゃう。すると、ともかくそこで一つの区切りがつく。…一人の人間の死についていろいろな人間がそれぞれの形で考えてみる、死が共有できる。そういうことが、ずっと文芸の世界では成立していた。それが今ではあまり言えなくなった…サラダを三パック…とても象徴的…こんな殺人事件なんて、我々には考えようがないですからね。死というものがぼくらに何の覚醒力ももたらさない。それが死というものについての人間の考え方の進歩である、というふうに別役さんは別役流の書き方で書いているのですけれども、そういう創作モチーフみたいなものが透けてみえる、そこがとてもおもしろかった。……そんな異様なといえば異様な人物たちのドラマが、何というか、非常に日常的にユーモラスに展開されていく。紛れもない別役的な世界が成立していく。ああいう乾いた笑いのある別役さんの舞台を、久しぶりに観たという気がしました。
O:保険金殺人というのが一つのテーマとしてある芝居……人殺しも自殺も、要するに死自体に覚醒力がない、と作者は言ってるわけですね。死までも一つの風俗となってしまう、現代の悪い夢なんでしょうか、怖さといいますか、それを描いていると思いました。……土瓶を打ち砕く行為も、猫を殺すのも、娘を殺すのも、同次元のところで描かれていく不気味な芝居で、とくに出だしのところは印象に残っています。ことばのやりとりというものは、例によってあっけらかんとしていまして、笑ってしまうわけです。しかし笑っているぼくをどこかで作者がジッと見ているんじゃないか、と気になってしょうがない。そういうお芝居でした。ベケット流の言い方をしますと、恐るべき日常の安定性といいますか、それをほんとに強く意識させられた芝居ですね。……今月見た芝居のなかでは、現代というものを一番意識させられた芝居です。
(演出もむだがない 細かく、行き届いた舞台)
『テアトロ』1987.1 みなもとごろう
あのいつもの電信柱は姿を消して、ことさら虚空からと指定のある、すすけたカサのついた電灯がポツンと一つともっている。…葬式の夜には似つかないような会話のうちに彼等が、保険金目当てに娘を殺したことがわかる。あとはただ目立たない普通の生活をして保険金の下りるのを待てばよいと言うのである。娘には殺される理由はなくとも、自分達には殺す理由があったというのが、この夫婦の考えなのだ。
大仰な倫理的苦悩など決して彼らは、これっぽっちも示さない。角野と吉野とが、見事に殺人を犯しても、およそ考えられる限り何事もなかったような夫婦の日常を、克明に描いてみせる。
死や死の意味があまりにも軽くなってしまった現在、彼等は逆にそうした時代の受難者のようにある輝きをもって見えてくる。虚空からという視点がどこか厳しくやさしいものの存在を暗示しているのではなかろうか。
最後のは論外として、前の二つも、テーマの半分に関しては見事な叙述だが、後半分のテーマには気づいていない、そういうのが私の結論だ。(Y.H)
どろんこ塾8期生卒業公演「さらだ殺人事件」を3月5日(土)
昼の部を拝見しました。
いつもながら1年足らずの間によくも卒業公演まで持って行かれるものと関係者の皆様に敬服しています。今回の公演は喜劇だと思いましたが、観客が堅すぎましたね。私も少しは笑いましたが、何か笑ってはいけないような雰囲気でした。「さくら」とまでいかなくても「誘導役」が居られればもっと柔らかく見させて頂けたのではと感じました。永田さんの演技はまさか天然物では無いですよね。天然物だとこれからの人生困ったことだと思いますが、それ程に上手く演じて居られたと思います。絡みの丸山さんも先輩らしく息が合ってましたね。大谷さんは落ち着いた演技で長台詞もとちることもなく立派に役をこなされていたと思います。特徴のある永田さんと比べて、普通の妻を演じるのは難しいことだと思いました。後少し変化が付けられればもっと幅が出るのではと感じました。
芝居の筋書きはゆっくりと理解しなければ、初めは何をするのかなと、少し不安でした。人間の気持ちを描いた物だと、半ば頃で判断できました。面白かったですよ。「殺人」と云う行為ではなく、「人の心理」が芝居だったと思います。最近の事件を見ても、コミュニケーションが取れない人が多くの事件を引き起こしています。正に、永田さんが演じられた人物がそうだと思います。赤ちゃんから親が育てながら、コミュニケーションが取れる人に育て上げる努力が必要なのではと、このお芝居で改めて
感じさせられました。私が思う育て方は赤ちゃんの時から「笑顔で接する」「食事は出来るだけ家族揃って摂る」「良い点は思い切り誉めあげる」そして物の判断ができる年代、内容にも寄るけれど3才位からは「いけないことは思い切り叱る」中学生位になれば誉めることは継続しながら、悪いことは「体罰」を加えてでも分からせる。私自身が3人の子供を育てた経験から、優しくて恐い親が少なくなったのかなと感じるのが、最近の変な事件を見て思うところです。長々と変な感想になり申し訳有りません。最後に小道具と音響に少し気付いた点を書きます。ラジオのコードがビニールでプラグもL字型だったと思います。天皇の・・・と有ったから、戦前の品物だと思います。ラジオ本体はどんな物でも、箱でも良いでしょうが主役が手にして動作に加わるコードには配慮されたら良かったのではと思いました。戦前の物にはビニールコードはないと思います。コードだけを袋打ちにして、プラグも丸い黒い物に取り替えて置かれば良かったのにと感じました。変にくにゃくにゃと電球の下で与太ってましたね。音響はラジオの選局動作の時に「かちゃ」「かちゃ」と音を出されましたがラジオの選局はバリヤブルコンデンサーをつまみを回して同調させるので音はしないです。最近のラジオはボタン式になっているから、若い音響担当者はテレビのチャンネルと勘違いしたのではと思いますね。以上の2点は若い人では気付かない点ですね。お歳を召した方が気を配って上げなければならない点だと思います。もっとも観客で気付いた人は少ないとは思いますが。次の公演も楽しみにさせて頂きます。有り難うございました。
61才 男 電気管理技術者
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