けだるさとズレ、しかし

                          平田 康

 客席が明るいうちから舞台には乳母のマリーナ(宮崎瑞枝)が登

場していて、医者のアーストロフ(南原昭雄)との会話が始まる頃

にやっと客席が暗くなる。日常生活と芝居の間の区切りを感じさせ

ない工夫で、これは休憩の後にも見られた。

 やがてヴォイニーツキイ=ワーニャおじさん(木村海人)が登場

し、教授(山室一貫)たちが散歩から戻って来ても、登場人物の間

の会話がかみ合わず、舞台にはけだるい雰囲気が漂う。ある人が観

劇後に「あの人たちは舞台に出る前にケンカしてたのと違う?全然

気持が通ってなかったわ」と言ったそうだが、まさにその通りだっ

た。十九世紀末のロシアの農村社会で、農奴「解放」やナロードニ

キ運動と二十世紀初頭の「革命」との間の閉塞状況の「闇夜」に生

きる人びとの「行く手に灯火は無く」、その人たちが醸し出すのは

「けだるさ」でしかあり得ない。例えば、美しいが経済的社会的く

びきを投げ捨てる勇気を持たないエレーナ(真野さよ)と、かつて

の理想と現実との距離を半ば認識しながら酒に溺れるアーストロフ

とのもろい「愛」は、登場人物すべての人間関係の「くい違い」の

典型だ。それを見せられた観客のイライラが、観客自身の発見や認

識につながるというのがチェーホフの真のねらいだという演出の思

いが舞台全体を貫いていたと言えるのではなかろうか。

 逆に言えばそれだけに個々の俳優の人間像創造の明晰さが問われ

る。その点で最も成功していたのがテレーギン(渡部純二)だった。

居候の卑屈さを体全体に漲らせてギターで皆のやりきれない間を埋

める。ワーニャが教授相手に爆発した時に、耐えられずに部屋を飛

び出す姿が強く印象に残った。

 『ワーニャおじさん』でいつも問題になるのがラストだ。今回は

死ぬまで「生きて行きましょう」と大好きなおじさんに呼びかける

ソーニャ(野木美里)の言葉は、全くのあきらめでもなく無駄な希

望でもなく、働き続ける現実の自分に対する表明として心に響くも

のだった。ただそれを聞くワーニャのあまりにも多い涙に違和感を

覚えた。これはそれまでの彼の形象において、「もし順調に来たら、

ショーペンハウエルにも、ドストエフスキイにも、なれたんだ」と

いう側面がほとんど感じ取れなかったことと無関係ではないだろう。

敢えて言えば、この戯曲の上演のポイントは直接に目に見えないも

のをどれだけ実感させることができるかにかかっている気がする。

アーストロフ、エレーナ、教授の場合、違いはあってもそれぞれの

実現できなかった過去が垣間見えた。もしワーニャの人間像にその

ふくらみが感じられれば、舞台全体として充実した余韻を残すこと

ができたであろう、惜しまれる。

(11月8日 神戸KAVC)