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伝説とか民話の類は事実を単に述べると実にあっけないものである。「ふーん、そうなの?」で終わらすぐらい、実に他愛もないものである。しかし、その淡白な事実を話すんじゃ面白くない。どうせなら面白おかしく脚色・肉付けしてしまおう...などという意識が働いて、口頭伝承を繰り返すうちに、物語として肥大化していく。そして際立った特徴だけが前面に押し出され、「ほんまにそんなことあったんかいな」と疑問を抱かずにはいられないほど、常識や自然の法則から逸脱した話になってしまっている。
だからこそ面白い。長い年月をかけて薫製のようにじわじわと燻し上げてきたものだからこそ味わいが深い。まあ、「噂」というものも似たようなもんだろう。ある時に誰かが呟いた何気ない言葉が、何らかの相乗効果でいつの日か事実へとすりかわる。
潮の満干を知らす松:松山市畑寺 繁多寺
「松山のむかし話」より
道後公園の中にこんもりとした小さな山があるが、ここには400年ほど昔、湯築城という河野氏の居城があった。河野通直という名前の城主が4人いたが、3人目の通直公のときのことである。
ある日、奥方が突然二人になってしまった。この二人は背丈から何からうりふたつで、どちらが本当の奥方か見分けがつかなかった。途方に暮れて医者に見せても「何ぞ魂が分かれる奇病かもしれん」というだけでさっぱり埒があかなかった。
その時、通直公は
「いい考えがある」
といい、二人の奥方を座敷牢に閉じ込めてしまった。そして牢内の奥方に何も食べ物を与えてはならぬと家来達に申し付けた。
4日後、食べ物を差し入れ、通直公は二人の食事ぶりを眺めることにした。すると、一人の奥方は落ち着いて箸を運ぶのに対し、もう一人はガツガツとむしゃぶりついている。それを見た通直公はただちに取り押さえた。すると、古狐が正体を現した。
通直公は大層腹を立て、この狐を火あぶりにしようと、庭に積んだ薪の上に吊るした。そのとき、大小3000匹の狐が城にやってきて、代表格の狐が懇願した。
「この狐は貴狐明神の子孫で、四国狐の統領です。焼き殺そうならば、きっと領内に災いをもたらすでしょう。お助け戴くならば、必ずやこの御恩に報いましょう」
通直公は
「それならば、今回限り許してやろう。但し、今後はこの四国の地から出ていくのだぞ」
と狐の縄を解き放し、逃がしてやった。
その日を境に、四国の狐は船に乗って中国地方に渡ってしまい、四国から狐は居なくなったという。→c.f.弘法大師が狸を四国から追い出した伝説
海から遠く離れた繁多寺の地に潮の満ち干きを示す松の木が生えている。潮が満ちたときには、その幹はしっとりと濡れて塩味がする。そして潮がひけば乾いて水気が無くなるという。
昔2本あったこの不思議な松は一旦枯死してしまったが、その種が飛んで今でも子孫を残しているという。
今の城山の麓の毘沙門坂辺りに貧乏暮らしをしている男がおり、毎日毎日大金持ちになりたいと考えていた。
ある日のこと、湯山横谷の毘沙門天への百日祈願を始めた。毎日5kmの道のりを日参し、境内に生えている竹を1本ずつ持ちかえり満願を心待ちにしていた。
99日目の夜、毘沙門天が夢枕に現れ、
「熱心なお前の願いを聞きいれてやろうではないか。但し、持ち帰った竹は全部もとの場所に戻すのだ」
と告げた。男は大層驚いて神託に従って竹をもとの場所に戻し、深く詫びを入れた。
その事があってからというものの、男はやることなすこと万事が好転に結びつき、忽ち巨額の富を手中に収めた。そして山の中腹に邸をを建てた。この山の中腹の広場が現在の長者が平である。
男が大金持ちになってからというものの、言葉を交わしたこともない親族縁者から始まって、見知らぬ者までが縁故にかこつけて物乞いに訪れる日々が続いた。こうなってくると、金を持っていることが段々わずらわしくなってきた。
「やはり昔の貧乏暮らしの方がええのう」
今度はどうにかして財産を無くすことを考え始めたのだが、意に反して財産は増え続けるばかりである。困った長者は思案に暮れていた。
ある日のこと、旅人が長者のもとを訪れた。この旅人に悩みを相談すると、
「何、お金をなくすことなどたやすいもんよ。一升の升を池で洗うて、うつぶせにして底を叩いたらええわい」
と教えてくれた。
早速長者は実行に移し、麓にある小池で升を洗ってみた。すると。その日から財産はじわじわと減っていき、気が付くと元の貧乏暮らしに戻ってしまった。そして終いには屋敷の中で飢え死にしてしまった。飢えて死んだので、この山のことをかつえやまと呼ぶようになり、これが訛って勝山になったという。長者が升を洗った桝洗池は昭和20年頃までは残っていたというが今では影も形もない。