・鎌倉時代を代表する宗教家で時宗の開祖。
・延応元年(1239)、道後の宝厳寺(今の松山市道後湯月町)にて生まれる。
・「捨聖(すてひじり)」「遊行聖(ゆぎょうのひじり)」の異名を持つ。
・北は陸奥国(岩手県)から南は九州大隅国(鹿児島県)にまで及ぶ遊行(修行をしながらの教化)をした。
・自分の死後は「野に捨てて獣にほどこすべし」と門弟達に言い、手持ちの書籍等を焼き捨て自分の跡を残そうとしなかった。 |
・「南無阿弥陀仏」の六字名号に救済の絶対力が存在すると考える一遍は、踊り念仏と賦算(名号の札を配ること)により人々と名号との縁を持たせ、そして浄土の世界を示した。
・正応2年(1289)没。★一遍上人の出生地、宝厳寺へいっぺん行ってみたらええわい。
・現在の松山市高岡町が生誕地という。
★旧空港通り沿いにある高岡公民館から北へ少し入ったとこに「生誕地」という石標があるわい。
・怪力と文武に優れ、「拳骨和尚」と親しまれた。
・「拳骨和尚」の名の由来は、物外がある日、町を歩いているときに、気に入った碁盤を見つけ、後から取りにくるからといって碁盤に拳骨の跡をつけたことからきている。
・寛政6年(1794)3月、松山藩士三木兵太夫信茂の長男として生まれ、5歳の時出家して龍泰寺の小僧とはり、12歳までいたという。
・天下無双といわれた物外は俳句、書画、書道、尺八、笛などにも優れ、多くの作品を残している。
・晩年は勤王の僧として幕末の動乱の中、朝廷と幕府の間を奔走した。
・慶応3年(1867)、73歳でこの世を去った。
★龍泰寺には物外和尚が幼少の頃遊んだという手水鉢があるぞね。
・779年、風早郡菅沢(今の松山市菅沢町に生まれる。
・天台宗延暦寺の別当で学僧。
・大同3年(808)、比叡山に登って天台の教義を習得し、最澄の弟子となった。
・高尾山では空海に従った。
・その深い学識は最澄や嵯峨天皇に厚く信頼された。
・伝灯大法師位に叙され、内供奉十禅師に選ばれ、仁寿4年(854)4月には延暦寺別当職に任ぜられ、別当大師とも呼ばれた。
・天安2年(858)8月10日に没する。
・主著に「日本名僧伝」「後伝法記」などがある。
・903〜972
・天台宗の僧。
・出身地等は不明
・天暦2年(948)、叡山に登り、大乗戒を受け、光勝の法名を受けた。
・融通念仏を唱道し、諸国周遊して、架橋・道路建設・井戸の掘削・廃寺復興などの功績を上げた。
・天徳〜応和年間(10世紀中頃)伊予に来住したという伝承がある。
★縁の地:浄土寺(松山市)の近くには空也谷、空也堂などの地名が残っている。
・天明2年(1782)〜元治元年(1864)・鍵谷カナは天明2年(1782)、温泉郡垣生村今出(現在の西垣生町)に生まれた。
・カナは常に紡績に関する興味を抱いていた。
・ 享和2年に夫の小野山藤八と共に讃岐の金刀比羅宮に参詣し、その帰り船中で乗合客の久留米人が久留米絣の着物を着用してい るのを見て、なんとか自分で絣をつくりたいと考えていた。
ある日、藁屋根の押竹に白い縄目の跡があるのにヒントを得て、全く独力で絣を織ることに成功した。 昭和4年伊豫織物組合発行の説明書に依れば、伊豫絣は久留米絣を見習ったものではなく、全く独創的なものだという。
・今出は伊予絣の発祥の地である。
・最初は、カナの出身地名から「今出絣」と呼んでいたが、愛媛全般に普及したので「松山絣」、「伊予絣」と呼ぶようになった。
・明治27年には、全国生産の 26%を占め、全国 1位を誇ったこともあったが、現在では機の音も聞こえない。
・元治元年(1864)5月28日、82歳で逝去した。
★西垣生町の長楽寺には鍵谷カナの墓があるぞね。
・嘉永5年(1852)北川原忽那菊太郎の長男として生まれた。7歳から9歳まで寺子屋に入ったので、学歴は2ヶ年に過ぎぬが、生来の向学心と不屈の意志で刻苦勉励自己学習に努め独学よく学を修めた。障害学習の魁、模範といえよう。
・明治9年(1876)24歳の時、農会令が布告されると直ちに「北川原農会」を結成、推されて会長に就任、各種講習会、研究会には進んで参加し、北川原に「農業試験地」を創設して米麦野菜類の品種改良に没頭、農業振興に挺進した。
・増産のため、新田開拓、災害復興には特に力を入れ、明治17年(1884)未曾有の暴風雨、海嘯による北川原・塩屋部落の災害甚大で復旧は絶望視されたが、明治37年復旧工事を完遂した。また重信川河口北岸の開拓にも着手し、漁業権の補償、其の他の難関を克服して千数町歩の畑を開墾、西瓜、桃等の生産地に育成し、数百年来だれも企てて及ばなかった難工事を完成せしめる等開拓農地造成に全力を傾注し、農業振興に精励した。
・明治35年以来、村会議員、区長、助役等を歴任、精励格勤その職務を遂行して篤く信望された。特に農事改良は耕地整理にありとしてその必要性を強調、率先して所有の田地五町歩を自己負担で決行し完遂する気運をつくり、また岡田地区が農業模範村として称揚される原動力ともなった。
・社会教育には特に力を注ぎ、他地区にさきがけて、「北川原農業補習学校」を開設、青年教育重視の嚆矢(こうし)となった。
・また、篤く神仏を信仰し、父菊太郎の病気平癒祈願のため三ヶ年1日も欠かさず沖神社に日参した。四国八十八ヶ所巡拝は3回に及んでいる。
・趣味として俳句を嗜み、「里月」と号して大原基戎門「明栄社」の幹部同人であった。
「年の坂越して若やぐこころ哉」
「花粉吸ふ蝶驚くや落椿」
「麻の葉にかくれてわびし一ツ家」
・大正3年12月努力の一生を閉じた。満62歳であった。
・世界最初の飛行機考案者といわれる。
・二宮忠八は慶応2年(1866)、愛媛県八幡浜市44番地に生まれた。
・丸亀連隊に看護兵として入隊後、明治22年(1887)11月9日、金刀比羅宮の裏山路行軍演習帰りの途上、香川県仲南町の樅の木峠で食を取っている最中に、谷間より飛来してきたカラスが滑空する姿を見て飛行原理を思いついた。 以来「人間もプロペラのようなもので風に打ち勝って進めば空中を飛べるんだ」という信念を持って飛行機研究に没頭した。洋傘をさして丸亀近郊の山崖から飛び降りてみたり、さまざまな虫(蜻蛉や蝶など)の飛ぶ有り様までも研究した。そして遂にアメリカのライト兄弟の世界初飛行に先駆けて、明治24年(1891)4月29日、丸亀練兵場でカラス型飛行機の飛行に成功した。 この時の飛行時間は5分間程度だったという。
・明治26年には2枚翼に4枚のプロペラと車輪のついた玉虫型模型飛行機を作成し、本物の試作を連隊に具申したが、日清戦争激化により受け入れられなかった。また、当時の軍幹部は「人間が空中を飛ぶなんて気違い沙汰だ」と取り合わなかったのだ。
・ライト兄弟の飛行記録は 1903年のことであり、二宮忠八こそが世界最初の飛行記録を持つのである。
・忠八の事績が世に知られるようになったのは、大正8年、白川義則、秋山好古両将軍によって頌えられてからである。このころ忠八は大阪製薬会社の社長であった。
・老後は京都府八幡町に飛行神社を建立し、征空数百の英霊を祀り、自ら神官となって奉斎に当たった。
・昭和11年(1936)4月、京都府八幡町にて没する。享年 71歳であった。★香川県仲南町には二宮忠八記念飛行公園、飛行神社があるわい。
・文政11年(1828)5月5日、近江国野州郡八夫村(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれる。
・天保7年(1836)、叔父の別子銅山支配人北脇治右衛門に招かれ別子勘定場に務め、安政2年(1855)、新居郡金子村久保田(現在の新居浜市)の広瀬義右衛門の養子となった。
・新居浜市で住友企業発展の基礎を築いた、住友家初代総理事。
・新居浜市発展の基礎といわれる別子銅山の採鉱開発に当たり、経営手腕を見せた。
・慶應元年(1865)、38歳の若さで別子銅山の総代理人に栄進し、幕末維新期間、幕府の貸下米停止、土佐藩による別子銅山差し押さえ・返還問題などの危機を乗り切った。維新後は、フランス人技師を招いて別子銅山の近代化を推進し、日本一の銅山に再生した。
・大正3年(1914) 1月30日、86歳で死去した。
・現在の主流である伊予柑「宮内いよかん」を発見し、無償で苗木を配り普及に努めた。
・文久2年(1862)道後村大字持田(現在の松山市持田町)に生まれる。
・伊予柑の普及に貢献した。
・明治22年(1889)、山口の萩へ園芸視察旅行に赴き、穴戸ミカンと呼ばれる伊予柑の原種と出会う。
・明治37年(1904)、愛媛県の農会長に就任。
・明治38年3月19日、インフルエンザが原因で43歳の若さで逝去した。
・道後姫塚の義安寺に保徳の墓がある。(保全明徳居士 真全明操大姉) その横には「待晨碑」がある。
・紙問屋の先駆者。
・和紙製造に機械動力を最初に使用した。
・宇和町縁の日本初の女医。
・江戸時代、オランダ商館医を務めたシーボルトの娘。
・14歳のときに、長崎県から宇和町へ来町し、当時卯之町で開業していた二宮敬作のもとで5年間、医学の修行に励んだ。
・明治28年(1895)〜昭和45年(1970)
・歌人、本名正教。
・松山市東長戸に生まれ、大阪で炭屋開業、のちガス会社に勤め、終戦前、短歌に親しむ。空襲で家を焼かれて帰郷、地方歌会等で、自在な歌と書を残した。
・歌集に「紅ひさご」「埋もれ火」あり。
・大正2年(1913)7月26日〜昭和27年(1952)5月5日
・大阪府生まれ
・戦後、詩人である涼香夫人の郷里である西条市に住み、詩誌「地の塩」を発刊後、2冊の未刊詩集「微笑と絶望」「微塵詩集」を遺して没する。
明治42年熊本県生まれ
昭和6年神宮皇学館(現皇学館大学)卒業。
25歳のとき朝鮮にて教職につき、36歳全州師範学校勤務中に終戦を迎える。
帰国後、昭和21年から愛媛県で高校教師を務め、65歳で退職。
以降、詩作に専念。
四国移住後、一遍上人の信仰に随順して仏教精神を基調とした詩の創作に転じ、昭和37年、月刊詩誌「詩国」を創刊。
・伊予郡砥部町高尾田在住。
・明治28年(1895)〜昭和45年(1970)
・歌人、本名正教。松山市東長戸に生まれ、大阪で炭屋開業、のちガス会社に勤め、終戦前、短歌に親しむ。空襲で家を焼かれて帰郷、地方歌会や「■■」誌上で天衣無縫で、自在な歌と書を残した。歌集に「紅ひさご」「埋もれ火」あり。
・明治29年余土村(現在の松山市)生まれの俳人。
・旧制松山高校を病気中退、療養しつつ句作に没頭。
・松山時代の石田波郷を見い出した。
・大正2年(1913)〜昭和44年(1969)
・大正2年(1913)、現在の松山市西垣生町に生まれる。
・俳句誌『つる』の創始者。
・昭和44年(1969)、生涯を閉じる。
・明治30年(1897)生まれ。平成4年(1992)没。
・つる女・本名鶴は高浜虚子の次兄池内政夫の三女。父が早死のため、四歳の時、長兄政恵の養女となり、後、波止浜町長今井五郎と結婚し今井姓となる。
・宇都宮丹騎鶴(1822-1909)は、夢大(むだい)、丹靖(たんせい)、亀石とも称した喜多郡滝川村(現在の長浜町)出身の俳人で、愚陀仏庵北隣に住み、子規との交友もあった。
★履脱天満宮に句碑あり。
・県内歌誌「にぎたづ」主宰
・文化6年(1809)〜明治23年(1890)
・本名:貞明。
・松山藩筆頭家老、俳諧の宗匠として活躍し、大原基戎と共に伊予俳諧の双璧と言われた。
・句集に「梅鷺集」がある。
・塩見黙翁に師事
・名を貞臣、通称弾正、山城、俳号を梅摘庵とも呼んだ。
・明治6年(1873)2月26日千舟町に生まれた。
・虚子とは中学、三高、二高でも同級であった。
・松山市役所前には、
「桜活けた花屑の中から一枝拾ふ」
の句碑がある。この句碑は、もと春日町にあった松山刑務所のものを移転させたものである。
・碧梧桐は、当初印象的・絵画的な定型句を作っていた。子規没後「新傾向」に走り、季題や定型に拘らない句を作った。
・昭和8年俳句界を引退。
・寛延2年(1746)に松山市松前町の豪商備前(豊前=ぶぜん?)屋後藤昌信の三男として生まれ、成人して同じ酒造家栗田家に 養子となり、同家七代の主となった。家業に励んでいるうち明和8年(1771)、23歳のときに松山藩大年寄見習という公職につき 、寛政3年(1791)退役して大年寄格となるまで、約19年この職にあった。
・松尾芭蕉死後百年、天明時代の俳諧復興をもたらした主な人として与謝無村、加藤暁台(かとうきょうたい)が有名であるが、 天明6年(1787)頃上京し、この暁台の教えを受け、このころ堕落していた俳文学を蕉風にもどす運動に努め、全国に名を知られる ようになった。
・文化11年(1814)66歳で逝去した。
・1840〜1896
・松山市紙屋町(今の松山市松前町、萱町辺り)生まれの俳人。
・家は代々薬種商を営む豪商であった。
・本名:弥七郎
・祖父は栗田樗堂の門下で、代々俳諧の名家であった。
・俳諧結社「睡壁社(すいへきしゃ)」をつくるなど、地元俳壇の中心人物として活躍した。c.f. 松山探訪 常信寺
・本名は酒井和太郎。
・明治16年(1883)3月15日、福岡県八女郡水田村(現在の筑後市)に生まれる。
・熊本五高より東京大学医学部に進み、卒業後、大正9年3月に松山日赤病院長として赴任した。その後50年間、県の医療の普及に貢献した。
・昭和25年より祝谷に住み、住居を田高庵と称した。
・東大俳句会において高浜虚子に師事。
・ホトトギス派の俳人(愛媛ホトトギス会会長)
・ 「東風の船 博士を乗せて 高浜へ」 虚子
この句は、黙禅が東京から松山に移住する際の餞として虚子が詠んだもの。
・明治35年、愛媛師範学校在学時に俳句会を結成し、村上霽月の指導を受ける。初参加の句会「松山松風会」において最高点を獲得し、注目される。
・明治39年、俳句和歌の文芸雑誌「四国文学」の主筆となる。この頃より高浜虚子との親交が始まる。
・大正13年、玉木北浪より俳誌「葉櫻」を継承し、主宰者となる。
・大正13年、村上霽月、柳原極堂らと子規遺跡保存会を結成し、正宗寺に子規堂を建設した。
・大正13年、酒井黙禅らと松山ホトトギス研究会を結成した。
・大正15年、俳誌「冬日」の雑詠選者となる。
・昭和2年、第1回全国俳句大会(葉櫻主催)を松山で開催し、幹事長を務める。
・昭和3年、福岡市で開催された第2回全国俳句大会に四国代表として出席する。
・昭和6年、「芝不器男句文集」を編纂するが、これは未発刊に終わった。(後に、子息の塩崎月穂氏が昭和55年に発表した。)
・昭和7年、葉櫻休刊。
・昭和13年、今治市小浦に住居を構え、地元俳界のリーダとなる。翌年、住居に小庵を建設し、これを高浜虚子は「露芦廬」と名付けた。
・昭和17年、愛媛県俳句作家協会の常任理事となり、また日本俳句作家協会の会員に推挙された。
・昭和19年、俳諧文庫幹事となる。
・昭和21年3月25日、城川町において急逝した。享年64歳であった。
・1874(明治7年)〜1959(昭和34年)
・本名:高浜清
・明治7年2月12日、湊町通り裏の新丁と呼ばれていたところ(子規の住んでいた家の裏側)に生まれる。
・明治7年、風早郡柳原村西の下(北条市西の下)に移る。
・9歳のとき、松山市玉川町(大街道東側辺り)に移る。以降明治25年迄ここに住む。
・昭和34年4月8日死去。
・明治15年(1882)〜昭和15年(1940)・本名種田正一。
・明治15年12月3日、種田竹次郎の長男として山口県防府市に生まれる。
・山口中学を卒業後、早稲田大学文学部文科に進学。
・明治39年に大学中退後、家業の酒造業を営むが、文学と酒に溺れた生活を続け、しかも仕込んだ酒が2年連続して腐ったこともあり、大正5年には倒産に至り、一家離散してしまった。
・家業倒産後、妻子と共に文学の友を頼って熊本で額縁店を開業するが、酒に溺れる生活は続き、妻とも離婚してしまった。
・大正13年、泥酔して市電の前に立ちはだかる奇行を行い警察に留置されるが、市内報恩寺の僧、望月義庵にひきとられ、以降参禅の日を送る。
・大正14年出家して耕畝(こうほ)と改名。翌年から一鉢一笠の全国行脚の旅に出た。
・中国、四国、九州などの各地を遍歴、漂泊の旅先で自由律の句を作り、新傾向俳誌萩原井泉水の「層雲」に投句した。|
・昭和14年、友人大山澄太の紹介で、高橋一洵、藤岡政一を頼って松山にやって来た。
・念願の四国遍路を果たした後、御幸山の麓に庵を結び、一草庵と称し、俳禅三昧の生活を送った。
・ことのほか温泉を愛し、湯田温泉にも庵を結び、流浪の途中の嬉野温泉や川棚温泉でもその希望が強かった。
・托鉢の俳人として多くの自由律の名句を残した種田山頭火は終焉の地として松山を選んだ。
・酒を愛し、放浪の旅を続けた彼は、道後温泉にも近いこの地を選び、一草庵と名付けて余生を過ごした。
・一草庵には 10カ月程住んだが、心臓麻痺により昭和15年(1940)10月11日に59歳の生涯を閉じた。享年59歳。松山での生活については「一草庵日記」に詳しく書かれている。
・愛媛県宇和島生まれ。神奈川県平塚市在住。
・昭和4年「渋柿」に入門し、松根東洋城に師事した。
・弘化4年(1847)〜大正15年(1926)
・明治34年(1901)7月24日に、父が領事を務めていた中国(当時は清)福建省厦門(あもい)の日本領事館で生まれた。本籍は松山市二番町。
・三歳で父の故郷の愛媛に移り、松山中学、松山高校で学んだ。
・松山高校卒業後、東京帝国大学文学部に入学し、大学卒業後は成蹊学園に就職した。
・昭和42年、同大学教授として定年退職するまで、33年間務めた。
・草田男は、大学入学後間もなく、高浜虚子の影響を受け、東大俳句会に入会したのをきっかけとして俳句を始めた。
・昭和8年「ホトトギス」の同人となり、水原秋桜子、山口誓子らと共に注目された。
・昭和21年に「萬録」を創刊した。
・草田男は29歳のとき虚子に就き、水原秋桜子の指導を受けた。
・句集「長子」を出版した後の彼の俳風は、人生と深く相わたろうとする苦闘のあとを示しており、「人間探求派」と呼ばれた。
・昭和58年8月5日、82歳でこの世を去った。★縁の地:
・明治28年(1895)、松山中学校にて英語を教えた。
・明治29年(1896)4月11日、熊本の第5高等学校教授となり、松山を去った。漱石は鬱金木綿の袋に入れた大弓を携え、虚子と共に広島行きの船に乗り、三津の港より出発した。このとき、横地松山中学校長、村上霽月、上野家の孫娘宮本(久保)よりえが見送った。
・1904〜1987
・愛媛アララギ会の会長★縁の地:千秋寺【松山市御幸】
・1867(慶応3年)〜1902(明治35年)
・慶応3年(1867)9月17日、温泉郡藤原町(今の松山市花園町)に生まれる。
・本名正岡常規(つねのり)。
・父の正岡常尚は松山藩の殿様の行列を警護する武士、母は藩で随一の学者、大原観山の長女であった。
・明治5年(1872)、6歳で父を失った子規は、幼い頃は病弱なお婆さんっ子であった。
・余土に伯父の家があり、幼少の頃はよく遊びに出かけていた。
・明治6年(1873)、7歳のとき、祖父大原観山に漢学を学び、末広学校に入学する。
・明治8年(1875)、9歳のとき、勝山学校に転校する。
・明治12年(1879)、に勝山学校を卒業し、松山中学に入学する。
・明治16年(1883)、 17歳のとき松山中学を退学し、東京に行く。
・17歳のとき、我国に入ってきたベースボールを幼名から升と野の球とを掛け合わせて野球という言葉を作ったと云われる。やがて松山の地にはじめて野球を伝えた。
・明治17年(1884)、大学予備門予科に入学し、その後、俳句に目覚める。
・明治22年(1889)、夏目漱石と友人となる。その年、喀血する。
・明治25年(1892)、大学を中退し日本新聞社に入社しジャーナリストになるが、日清戦争に従軍記者として出向き活躍するが、帰りの船の中で喀血。
・明治28年(1895)、新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍した子規は、中国金州からの帰途、重病を患い、帰日後神戸病院に入院し、病勢衰えてから須磨保養院に転院した。
・神戸、須磨で療養したあと、明治28年(1895)8月25日に一時的に郷里松山に帰省して、当時松山中学の教師として赴任していた夏目漱石の下宿愚陀仏庵(二番町)に滞在した。このとき松山の新派俳句は興ったと云う。 この滞在50日余の間、松山市近郊の散歩吟行を試み、その紀行文を「散策集」として一冊に綴った。
・新聞「日本」の俳句雑誌「ホトトギス」等によって子規は日本新派俳句を全国に普及させた。また叙情文、写生文を提唱し、当時の小説家達に影響を与えた。
・明治35年(1902)9月19日、36歳で死去。
・東洋城は松山中学で夏目漱石に英語と俳句を学んだ
・後に俳誌「渋柿」を主宰刊行した。
・松山市長を務める。
・愛媛ホトトギス会長
・明治2年(1869)〜昭和21年(1946)
・本名は村上半太郎。
・明治2年(1869)、今出(現在の松山市西垣生町)に生まれる。
・霽月は、子規に先んじて蕪村を推重し、子規の句友として活躍した。
・神仙体俳句や転和吟(てんなぎん=漢詩の詩句からの連想を俳句に詠んだもの)という独特の俳句様式を創り出すなど新しい試みを行った。
・正岡子規のほか、夏目漱石、高浜虚子などとも親交があった。
・名門に生まれ、明治・大正・昭和の経済界の立役者で、昭和45年には生誕百年祭が催され遺徳を顕彰した。
・昭和21年(1946)、生涯を閉じる。★西垣生町の伊予鉄バス今出線三島神社停留所の前には村上霽月邸跡があるわい。
★この界隈には村上霽月の句碑がいくつか建っとるんよ。
・旧余土村(現在の松山市余戸)にて生まれる。
・本名は森恒太郎という。
・盲目の身で余土村を模範村に成し遂げ、全国にその名を知られた。
・県会議員、道後湯之町町長を務める傍ら、正岡子規に師事し「天外」の号を受け、明治28年に失明した後は盲天外と号した。
・初めは三樹堂、狐鶴と号し、明治24年月刊誌「はせを影」を発刊して、第2号に子規の紀行文を載せた。
・農村教化に努めた。
・名著「一粒米」(明治41年刊)などがある。
・慶応3年(1867)2月11日〜昭和32年(1957)
・伊予国温泉郡北京町108番地に生まれる。
・父柳原権之助正義(松山藩大将姓格)、母トシの長男として生まれる。
・本名:正之(まさゆき)、幼名:喜久馬(きくま)
・明治14年松山中学校入学。
・正岡子規の文友。
・明治28年、日清戦争から帰還療養中の子規を、漱石の愚陀仏庵に訪ね、松風会員とともに連日俳句の指導を受けた。
・子規俳風普及のため、極堂は俳誌「ほととぎす」を発刊、松山俳句界の興隆に資し、晩年は子規顕彰に尽くした。
・本名は内海愛之丞といい、松山藩士であった。
・俳諧は京都に上って桜井梅室に学び、その養子になり花の本脇宗匠となった。
・晩年松山に帰り、明治初期地方俳壇の長老として仰がれた。
・大原基戎とは同門。
・川柳作家で、愛媛柳界の第一人者として川柳の指導普及に貢献した。
・明治22年(1889)高松市で生まれた。本名は久太郎という。
・「野球拳」の宗家として知られる。 前田伍健は、高松中学校卒業後、伊予鉄道電気(今の伊予鉄)に入社した。
大正13年の秋、高松で近県実業団野球大会が行われたときの高商クラブとの懇親会の席で、当日の試合の惨敗の仇を余興で討とうとして伊予鉄チームに即興の踊りを踊らせたのが「野球拳」の始まりとか。
・川柳は明治末期に東京の窪田而笑子の門に学び、全国川柳界の七賢人に選ばれたほどである。
・昭和35年(1960)、71歳で生涯を閉じた。
・1935年、愛媛県大瀬村(今の喜多郡内子町大瀬)に出生する。
・新制中学第1期生として新憲法下の民主主義教育を受け、松山東高校から東京大学仏文科へ進学。
・1957年「東京大学新聞」の五月祭賞に、小説「奇妙な仕事」で入選。
・1958年「飼育」で芥川賞を受賞し、一躍「新しい文学」の旗手となった。
・以降、浅沼稲次郎刺殺事件を素材にした「セヴンティーン」をはじめ、「個人的な体験」、「万延元年のフットボール」、「洪水はわが魂に及び」、「新しい人よ眼ざめよ」など話題作を精力的に発表。また広島、沖縄に関する文学者として発現、著作も多く、「ヒロシマノート」、「持続する志」などが代表作。
・ノーベル文学賞作家。
・1879(明治12年)〜1965
・明治12年6月11日、桜井信之の三男として小唐人町(現在の大街道1丁目)に生まれる。
・13歳の頃、兄の勧めで絵で身を立てようと、絵師松浦厳暉(がきん)に入門したことがある。
・明治32年松山中学校を卒業後、陸軍士官学校に入り、35年小尉に任官した。
・日露戦争では、松山歩兵第22連隊の旗手として出征し、乃木将軍の指揮下で旅順の戦いに参加した。37年8月の砲台突撃で連隊は壊滅し、忠温も重傷を負うことになった。
・その後、療養中に、そのときの体験を描いた戦記『肉弾』(39年出版)が一躍ベストセラーになり、英訳をはじめ世界16ヶ国語に翻訳され、"体験者の記録としての戦記ものの原点"と評された。
・その後も、『銃後』『草に祈る』『将軍乃木』などを執筆した。
・陸軍経理学校生徒隊長、京都・小倉師団副官などを歴任し、大正13年には陸軍省新聞班長になり、昭和3年外遊、5年に小将で退役した。
・戦後は、自伝的な『哀しきものの記録』などを発表したが、夫人に先立たれ、34年帰松し、山越町に筆名落葉にちなんで名付けた "落葉村舎"で老後を過ごした。
・87歳でその生涯を閉じ、墓は正宗寺(末広町)にある。
・大正2年、松山市大街道1丁目の陶器店に生まれる。
・松山東高校の校歌の作詞も行っている。
・久万町出身の実業家
・日本近代を中心とした洋画・日本画・書などのコレクションで知られる。井部コレクションは、久万町の町立久万美術館で観賞することができる。
・1928年3月3日、伊方町九町に生まれる。
・1950年より砥部町五本松に在住し、1962年青芳窯を開窯し、現在に至る。
・青芳人形は砥部焼の伝統と技法を生かし創作したもの。
・新居浜市出身の日本画家。
・西条藩のお抱え絵師。
・明治43年(1910)、道後祝谷に生まれる。
・松山中学卒業後、画家を目指して上京。洋画研究所等で洋画を学ぶ。
・1931年には、二科展に最年少で初入選を果たした。
・やがて猪熊弦一郎に師事した。
・今治市出身。
・1882〜1958
・横山大観の一番弟子と言われた。
・1932年、宇和島市に生まれる。
・日本画、洋画の境界を払った独特の画風を打ち立てた。
・大覚寺、醍醐寺の障壁画も制作した。
・現在、滋賀県大津市在住。
・松山市出身
・下村牛伴
・松風会の指導者
・柳原極堂の「碌堂」という名前は下村によって与えられた。
・1876年、重信町に生まれる。
・多摩美術大学(多摩帝国美術学校)の創始者。
・雑誌、本の装丁や百貨店・地下鉄などの広告ポスターを多く手掛けた。
・越智郡波方町出身の洋画、挿絵画家。
・毎日新聞の連載小説、宮尾登美子の「蔵」の挿し絵を描いた。
・愛媛県越智郡吉海町出身の洋画家。
・三間町出身。
・1940年、愛媛師範学校本科第一部卒業。
・在学中、藤谷庸夫に師事した。
・井上和と同期で、親交が深かった。
・卒業後、北宇和郡の泉第一小学校訓導として勤務。
・1942年、フィリピンバタン半島で戦死した。
・北宇和郡三間町出身の版画家。
・三間町名誉町民。
・1902〜1999
・平成11年4月逝去。
★南海放送サンパークに畦地梅太郎記念美術館があるわい。
・愛媛県北宇和郡三間町出身
・1948年日本版画協会に木版画を出品して初入賞、1960年には国画会員となる。
・1994年10月、83歳で逝去。
・西条市出身。
・松山市出身。
・東京美術学校に学び、昭和11年(1936)に二科展に出品以来、二科を中心に制作活動を続けた。
★乗松巌記念館「エスパス21」が松山市小坂にある!
・大阪市在住。
・越智郡上浦町出身の書道家で、文化勲章受章者。
・文政4年1月10日、温泉郡久米村(現在の松山市)、日尾八幡神社の神職、三輪田清政の長男として生まれる。
・幼名は秀雄、本名は常貞。
・弟の高房は漢学・国学者、元綱は勤王の志士。
・日尾八幡神社をはじめとする、県内の神社仏閣の奉納額・幟・鳥居などへの揮毫が多い。
・明治41年11月3日、87歳で死去した。
・代表作「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」「クイーンエメラルダス」など。
・母親は新谷村(現大洲市新谷)出身。
・松本零士は、1944〜1946年の戦中戦後の3年間、新谷に疎開していた。
・宇和町出身。
・代表作「学級王ヤマサキ」「よしもとムチっ子物語」(小学館コロコロコミックス)。
・松山市出身。
・越智郡朝倉村出身。
・昭和7年のロサンゼルス五輪体操競技の日本代表。昭和11年のベルリン大会では日本代表の主将を務めた。
・松山商業(現松山商業高校)から体操学校(現日本体育大学)に進学。昭和6年に卒業後、教鞭に就く。
・昭和18年、33歳の若さで生涯を閉じた。
・昭和4年、宇和島市に生まれる。
・宇和島中学(現宇和島東高)から日本体育専門学校(現日本体育大学)に進学した。
・昭和22年の大学3年のとき、日本選手権優勝10回を数える竹本正夫氏と出会い、その後河野は大きく成長を遂げた。
・昭和29年のローマ選手権大会で日本代表として出場し、ソ連に次いで2位の成績を収めた。
・その後、日本体育大学、愛媛大学で後進の指導にあたった。
・吉田町出身。
・吉田中学から東雲高校に進み、新体操に取り組んだ。高校時代にはロサンゼルス五輪候補にもなった。
・その後、東京女子体育大学に進学。世界選手権では日本選手中最高の19位に入った。昭和63年のオリンピックソウル大会では秋山エリカと共に、日本代表となった。
・津島町出身。
・卓球元世界チャンピオン。
・三重大学講師。
・野村町惣川出身
・本名萩森金松。
・大正3年(1914)5月4日、父圓太郎,母ツユの五男として喜須来村喜木(現保内町喜木)に生まれる。
・昭和2年(1927)3月喜須来尋常高等小学校卒業後、昭和3年(1928)11月、14歳で大相撲の高砂部屋にに入門する。
・昭和4年1月喜木山で初土俵 昭和8年12月新十両の土俵を前に右腕上膊骨骨髄炎になるが、慶應大学前田和三郎博士の診療手術により約1年を費やし完治する。その恩に感激し前田山と改め三段目より再スタートする。
・その後は順調に出世し、昭和9年1月、十両昇進。十両を二場所、入幕三場所目後に大関となり、大関在位時に高砂を襲名する。大関を9年18場所務め、戦後初の横綱(第39代)となる。幕内通算成績206勝104敗39休。
・昭和24年10月に引退した後は高砂親方として横綱朝潮、大関前の山、関脇高見山、小結富士錦らの力士を養成する。相撲協会においては理事・取締の要職を務める。また協会きっての外国通として知られ、昭和26年9月には力士3名を伴い、相撲紹介のため渡米する。後のハワイ巡業などにも尽力し、外国人関取第一号となる高見山をスカウトするなど、相撲の国際化に多大な貢献をした。
・昭和46年(1971)8月17日、57歳で波乱の生涯を閉じる。
・「ノッチでーす」でおなじみ。デインジャラスのノッチ
・フジテレビ系「タモリのボキャブラ天国」→「黄金ボキャブラ天国」に出演
・砥部町出身の新派の役者。
・明治14年6月15日、小坂春吉とタイの長男として砥部町大南に生まれる。本名勇一。
・明治25年、砥部尋常小学校を卒業。
・明治31年、松山・新栄座に興行中の敷島義団に入団し、小坂幸二と名乗って初舞台を踏む。後に井上政夫と改名した。
・明治33年、大阪朝日座で大部屋に昇進した。
・明治35年、井上正夫に改名した。
・明治37年、東京真砂座で「女夫浪」の秀夫役で認められる。同年、松本けいと結婚した。
・大正2年、田端白梅園で我が国初の野外劇を上演した。
・大正4年、浅草御国座で連鎖劇を興行した。
・大正8年、「酒中日記」で第1回国民文芸会賞を受賞した。
・大正9年、国際活動映画株式会社に入社し、映画研究視察のため渡米した。
・大正10年、国活映画「寒椿」が完成。同年、松竹映画に入社。
・大正11年、明治座で花柳章太郎と「大尉の娘」を上演。
・大正12年、映画「噫無常」完成。同年、映画視察のため欧州に渡る。
・大正14年、NHK最初のメロドラマ「大尉の娘」を放送した。
・昭和元年、映画「狂った一頁」で演技賞を受賞。
・昭和10年、映画「大尉の娘」を制作。
・昭和11年、山口俊雄、岡田嘉子らを一座に加えて、井上演劇道場を開設し、中間演劇を上演した。代表作として、「断層」、「彦六大いに笑う」、「海の星」などがある。
・昭和13年、砥部焼の窯を舞台とする「焔の人」を上演する。
・昭和20年、戦災者慰問のため、愛媛県下を巡演する。
・昭和21年、井上演劇道場を海産し、新協劇団に合流。
・昭和23年、水谷八重子と合同で「金色夜叉」に出演。映画では、「鐘の鳴る丘」に出演。
・昭和24年、日本芸術院会員となる。
・昭和25年、新橋演舞場「恋文」で二宮新吾を演じ、これが最後の舞台となる。
・昭和25年2月7日、享年70歳で逝去。
・温泉郡中島町津和地島出身。
・映画「竜二」(1983、川島透監督)に主演。
・33歳の若さで早逝した。
・本名岡本広美。松山市出身。東温高校卒。武蔵野美大中退。
・映画「Shall we ダンス」等
・上浮穴郡久万町出身。1946年生まれ。
・道後中学校、松山聖陵高校卒。
・「仮面ライダー」の本郷猛役で脚光を浴びた。
・松山市出身。
・肱川町出身。
・「南国土佐を後にして」の作詞・作曲者
・14歳の時に17歳の娘との駆け落ち事件を起こした後、東京へ。
・山田耕筰からの音楽指導を受けた。
・30歳でNHK京都和洋管弦楽団指揮者となった。
・津島町出身。
・ピンクレディーの振り付けも行った。
・新居浜市出身。
・安政6年(1859)、松山藩士秋山久敬の三男として現在の歩行町2丁目に生まれる。
・幼名は信三郎といった。
・秋山真之の実兄。
・明治8年大阪の師範学校を出て名古屋で小学校教員になるが、10年陸軍士官学校、16年陸軍大学校に進み騎兵科を志した。20年に旧藩主の久松定謨の補導役として四年間フランスに留学した。
・日清戦争(1894)で騎兵第一大隊長、戦後は陸軍乗馬学校長となり、騎兵科を捜索伝令用だけでなく、「戦略機動集団の騎兵」として強化発展させ、"騎兵の父"と仰がれた。
・日露戦争(1904)では、騎兵第一旅団長となり、世界最強といわれたコサック騎兵の大軍を破り、日本軍の勝利に貢献した。
・大正5年大将になり、その後も陸軍の要職を歴任した。
・大正12年現役を退き、翌年松山に帰り、北伊予中学校(現松山北高校)の校長となり後進の育成に尽くした。
・現在、歩行町2丁目には秋山両将遺邸の碑があり、梅津寺の小高い丘には海を見下ろす銅像が建てられている。
・青地林宗の家は代々松山藩医であった。林宗は江戸に出て、杉田玄白について蘭学を修めたが、長崎にも遊学した。再び江戸に帰って幕府の訳官である馬場佐十郎と親交を結び、天文台の翻訳方に任ぜられた。
・文政 5年(1822)に 48歳で万国輿地誌 65巻を訳述した。
・更に文政 8年(1825)、51歳のとき気海観瀾一巻を著述し、初めて西欧の進歩した物理学を我国に紹介し、識者を驚かせた。 |
・その後、幕府天文台の翻訳方となった。水戸藩に招かれたこともあったが天保 4年(1822) 2月22日、59歳を以て江戸で没し、浅草の曹源寺に葬られた。
・明治16年12月23日松山市に生まれた。昭和41年6月7日没
・一高在学中、華厳の滝に身を投じた友人藤村操の自殺に衝撃を受け、思想・芸術へ傾倒していった。
・哲学者としては「カントの実践哲学」等を纏めた。
・教育者としては、一高校長、文部大臣、帝室博物館総長、学習院長等を歴任した。
・明治2年〜昭和23年・明治2年、松山藩士勝田久廉の五男として御宝町に生まれた。
・明治19年松山中学を卒業して上京。上京中、正岡子規から俳句を勧められ明庵と号し、後に宰州と改めた。
・明治28年、東京帝国大学法学科を卒業して大蔵省に入り、明治41年理材局長になり、大正元年には大蔵次官に就任、退官後の3年貴族院議院に勅撰された。
・大正5年、寺内正毅内閣の大蔵大臣に抜擢され、愛媛県出身者としては初の大臣に就任した。在任中は第一次世界大戦時の好景気を調整し中国大陸への投資などを推進した。
・大正7年寺内内閣総辞職で大蔵大臣を退いたが、大正13年清浦奎吾内閣の大蔵大臣に再度選ばれ、関東大震災後の東京復興に尽くした。
・昭和3年には田中義一内閣の文部大臣を務め、14年から16年まで内閣参議に任じられた。
・郷里のためには、愛媛県人会を創立して会長になり、昭和23年、80歳でその生涯を閉じた。
・若い頃から正岡子規と交流があったこともあり、その俳歴も長く、著書に「黒雲白雨」、「宰州句日記」などがある。また昭和44年には、奥道後の杉立山頂に銅像が建てられている。
・二宮敬作は保内町磯崎に生まれた。
16歳で長崎に渡り、医学を学んでシーボルトに師事し
た。
・シーボルト事件で長崎から追放されたため、24歳で郷
里に帰り、宇和町で開業医になった。日本人発の女医
となったシーボルトの娘イネを養育した。
・ 藩士
・永禄6年(1563)頃、美濃(今の岐阜県)に生まれた。(生年不詳)
・足立重信は初代の松山城主加藤嘉明の重臣として信任厚く、文武両道を兼ね揃えた武士であった。松山城築城に際しては普請奉行となり、城郭と城下町の建設に苦労を重ねた。又、重信は治水に非凡の才を発揮し、当時荒廃した伊予川(重信川)の改修に成功したばかりでなく、更に石手川の流路を南に移して、広大な農地と城下町建設の予定地を獲得することにも成功した。実に、重信によって城下町松山の素地が作られたといえる。
・しかし寛永2年(1625)1月17日に、未完成の城に心を残しながら、西堀端の邸で病没した。遺言により城郭が一望できる地、来迎寺の境内に葬られた。
・伊豫国砥部庄千里城の城主。
・建武3年(1336)の湊川の合戦において、宮方の名将楠木正成を敗死させた。
・暦応3年(1340)、宮方の新田義助(新田義貞の弟)の四国制圧により形勢逆転したが、武家側細川頼春来襲により形勢が再逆転した。これにより砥部中山遊猟地2000貫を加賜された。
・その後、砥部町五本松部落の館、花屋敷で暮らす。
・神前郷松前村(現在の伊予郡松前町)金蓮寺へ向かう途中、重光の部落を流れる矢取川で楠木正成の怨霊の化身「鬼女」に出くわしたという伝説がある。◎矢取川の鬼女
神前郷松前村金蓮寺へ向かう途中、重光の部落を流れる矢取川で鬼女に出くわした。
この物語は江戸時代には舞踊劇となり、明治時代には福地桜痴の史劇「大森彦七」が新歌舞伎の18番の1つとして上演された。
・松前城主
常信寺【松山市】
常信寺【松山市】
・宇和島藩家老職総奉行であった。
・慶長19年(1614)、仙台藩主伊達正宗の長男秀宗が十万石で宇和島に移封されたとき、これに従って来た。
・5世紀の政治家(大和朝廷時代における勤王家)。
・伊予郡久米郡(今の松山市。昔の久米郡は、松山市石井町、居相町辺りを中心とし久米一帯を指す。)に生まれる。
・清寧天皇時代(1140〜1144)、播磨の国司に任命された。
・清寧天皇没後、継嗣がなかったので、小楯は播磨国明石郡の忍海部細目の家で市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)の遺児億計・弘計の二王を発見し、これを朝廷に奏上した。やがて二王は皇位を継承し、仁賢・顕宗天皇となった。
・四国遍路の始祖と言われる。
・松山市恵原
c.f. 岡田十五郎神社
c.f. 義農神社
・松前の義農作兵衛と並び、後世まで語り継がれる偉大な義人である。
・窪田兵右衛門は下麻生村(現在の砥部町麻生)の組頭であった。
・明和8年(1771)の大干魃の時、今までも度々水論のあった古桶井手という用水路を使っていた上麻生村(大洲領)、下麻生村(新谷領)と、一の井手を使っていた南神崎村(天領)、上野村(大洲領)、徳丸村(松山領)、出作村(松山領)、八倉村(大洲領)の農民の間で水争いの大騒動が起きた。数百人の農民達が大乱闘を起こし、2人の死者と多数の負傷者が出た。これは、天 領や松山・大洲・新谷の各藩にわたる大事件であったので幕府の裁くところとなり、倉敷・笠岡(岡山県)と代官所に381人の農 民が出頭させられ、厳しい吟味で気絶する者さえ出た。取調はおよそ2年間も続いたが決着がつかず、最終的には、加害者側の下麻生村の庄屋清右衛門と、組頭兵右衛門ら数名が残され、3年間にわたる長い取調となった。兵右衛門は、事件当時母が病気のため、この騒動には積極的に参加していなかったが、密かに覚悟を決め、 ひとりで罪を引き受けた。そこで兵右衛門は死罪となり、事件はやっとのことで治まった。
・文政11年(1827)9月12日、温泉郡道後湯之町(現在の松山市)の医者、成川国雄の三男として生まれた。16歳のとき阿部庸男の養子になったが、養家に男子が生まれたので別籍して伊佐庭と名乗った。
・初代道後湯之町町長となり、道後温泉を町営に移し、明治27年(1894)4月に三層楼の道後温泉本館を建設した。
・明治28年(1895)には一番町−道後−三津口間の軽便鉄道を開通させ、入湯客を誘致した。
・明治40年9月4日、80歳で死去した。
・紀州和歌山生まれ。
・11歳で仏門に入り、慶應元年(1865)24歳のときに愛媛に来県し、松山市石手寺定観坊住職となる。
・明治4年(1871)、大宝寺の執事に就任した。
・神仏分離、寺禄廃止など、新政府の打ち出した政策に揺れ動く中、栄範は財政基金としての植林を開始した。
・その後も久万町の植林事業に大きく貢献した。
・明治12年(1879)、菅生村戸町(村長)に就任した。
・日吉村出身。
・土佐和紙「七色紙」の祖。
・天正19年(1591)頃、現在の高知県吾川郡伊野町に紙漉き技術を伝授した。
・慶長元年(1596)、帰郷途中に、技法が他に漏れることを防ぐために斬り殺されたと伝えられる。