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伊予市(Iyo City)このページの最新更新年月日は |
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(1).「自然環境と調和を図り、災害のない魅力あるまちづくり」
(2).「活気に満ちたまちづくり」
(3).「かおり高い教育と文化の向上を目指したまちづくり」
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市の花 市の木 市の花木 市の鳥 ツツジ メタセコイア(扶桑木)
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唐川ビワ
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伊予市観光協会 (TEL)089-982-0334 (FAX)089-083-2227
・明治22年、町村制施行により、郡中町、郡中村、北山崎村、南伊予村となる。
・明治23年、南山崎村が誕生。
・昭和15年1月、郡中町が郡中村を吸収。
・昭和30年1月、郡中町、北山崎村、南伊予村、南山崎村が対等合併して伊予市となる。
大字 字 灘町 米湊(こみなと) 湊町 尾崎 本郡(ほんぐ) 森 三秋 大平 平岡 上唐川 下唐川 両沢 鵜崎 市場 稲荷 上吾川 下吾川 上三谷 下三谷 宮下 八倉
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稲荷神社楼門【伊予市稲荷 伊予稲荷神社】
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・県指定文化財
・1662年(寛文2年)建造。
・伊予の名工、余土の治部の造立と言われる。
・三間一戸、屋根入母屋造り、瓦葺
伊予岡古墳【伊予市上吾川 伊予岡八幡宮】
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・県指定文化財
石造層塔【伊予市大平曽根】
・県指定文化財
・高さ3.3mの五重層塔。凝灰岩でできており、造立当時は七重の層塔であったと推定される。
・建治3年(1277)の年紀銘を有する。
かわらがはな窯跡【伊予市市場】
2001/1/28
・県指定史跡(昭和43年3月8日指定)
・奈良中期(8世紀前半)の窯跡。
・「かわらがはな」の山腹の自然の傾斜地を利用して作られた古代の登り窯であり、10数基の窯跡が確認されている。
・現在、そのうちの3基が公開されている。構造はいずれも有段の半地下形式の登り窯で、各々に燃焼部・焼成部・煙道部がある。
・古代の登り窯で「かわらがはな」のように天井部が残っているのは珍しいとされている。
・天井及び側壁はガラス状のコバルト色をしているが、小石交じりの焼粘土塊である。
・南側の1号窯は、燃焼部の奥行1.5m、幅1.32m、天井部までの高さ1.5mである。焼成部は42〜48度の傾斜に8段の階段がつけられ、段の横幅は1段目は1.55m、8段目が0.75mの隧道型である。
・出土した瓦は軒丸瓦、軒平瓦で、共に重弧文が施されている。また、須恵器、土師器も出土している。軒平瓦(のきひらがわら)
・軒の最先端に葺かれた飾文のある平瓦の一種で、平瓦の下端が厚くなり、その垂直面に装飾として文様を取り付けたものである。飛鳥時代にはまだ広く用いられず、白鳳時代になって軒平瓦の使用が一般化し、この例は急に増加する。文様には唐草文と重弧文とがあり、奈良時代には地方色が加味されて多種多様となる。重弧文軒平瓦(じゅうこもんのきひらがわら)
・同心円弧文ともいい、弥生式土器・銅鐸に長く使われた文様である。同心円的文様の複合をもって構成されたこの文様は西日本を中心に分布している。土師器(はじき)
・赤褐色の素焼き土器である。焼成温度は800℃前後であり、弥生式土器と同じ手法で作られた。模様はあまりなく地味な焼物であるが、4世紀から11世紀に至る長期にわたって使用された。普段農民が使う壺・甕などの炊事用具として、大量に生産された。須恵器(すえき)
・青灰色あるいは灰黒色を呈する硬質の土器である。1000℃以上の高温で焼成され、粘土も良質のものが選ばれた。5世紀初め頃、朝鮮半島南部から作製技術者が渡来し、生産が開始されたと考えられる。当初は、主に副葬用や祭祀用として作られたが、8世紀頃から日常雑器として一般に普及した。丸瓦(まるがわら)
本瓦葺丸瓦(ほんがわらぶきまるがわら)
行基葺行基丸(ぎょうきぶきぎょうきまる)
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扶桑木(ふそうぼく)【伊予市森 大谷海岸】
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・昭和31年11月3日指定
・砂層、礫層、粘土層、シルト層、テフラ層を挟む地層が露出している郡中層から産出されるメタセコイア、トガサワラ、オオバラモミ等古代植物25属29種の化石。
・淡水産の貝類の化石も多く発見されている。
ソテツ【伊予市大平梶畑】
2001/1/28
・昭和25年10月20日指定。(ひょっとしたらもう解除されているかもしれない。)
・梶畑集会所の裏手の公園内にある。
・小さな祠に添うように立つソテツの雄株である。
・大小の樹幹20数本が叢生しており、根廻り9m、樹高10mに達し、樹勢はますます旺盛で、その巨大な雄姿は数世紀にわたって郷土の人とともに生きてきた。
・元来愛媛県でのソテツは栽培植物であり、このソテツのように自生しているものは珍しい。
★2001年1月28日に訪れてみると、高さは1.5mほどである。台風で倒壊してしまったのか、かつての雄姿はどこへやらになっている。しかし枯死したわけではないのが唯一の救いであろう。![]()
千手観音(千手千眼観自在菩薩)像【伊予市上吾川 宝珠寺】
・市指定有形文化財
宝珠寺本殿【伊予市上吾川 宝珠寺】
・市指定有形文化財
後藤又兵衛基次公菩提所【伊予市宮下 長泉寺】
・市指定有形文化財
大般若経【伊予市下三谷 傳宗寺】
・市指定有形文化財
薬師堂【伊予市下三谷 傳宗寺】
・市指定有形文化財
日露戦争絵馬【伊予市上吾川 伊予岡八幡宮】
・市指定有形文化財
雲居国師(うんごこくし)生誕地【伊予市】
2001/7/8
・伊予市指定文化財(史跡)(昭和62年2月24日指定)
・雲居国師の父は小浜左京といい、土佐中村藩主・一条兼定に仕えていた。
・天正10年(1582)、長宗我部元親に攻められ、重傷を負った兼定は道後温泉で湯治することになった。兼定の乳母であった左京の妻は、我が手で看病するため、遠い道のりを急いだ。身重だった彼女は三谷毘沙門堂で身体を休めているときに産気づき、1月25日正午、立派な男子を生んだ。その子が後に雲居国師になる。
・雲居国師は青年時代から天下の名僧・傑僧を訪ねて諸国行脚修行の旅を続けた。その途中、元和7年(1621)、天徳寺(松山市)の南源師を訪ねた。その話を聞いた松山城主・加藤嘉明、明成父子はさっそく天徳寺を訪ね、その徳の高いことに感銘を深くし、雲居国師のために宝樹寺を創建した。
・寛永15年(1636)、55歳のとき仙台藩主・伊達政宗からの再三の招請により松島瑞巌寺の第99世の住職となり、中興の大業を成し遂げる。
・師は76歳で亡くなられたが、権力者や庶民に分け隔てなく接し、生涯木綿の僧衣をまとって倹約を示し、人々から生き仏と慕われた。
尾崎天神下古墳【伊予市尾崎】
・市指定有形文化財(史跡)
猪之窪古墳【伊予市宮下】
・市指定有形文化財(史跡)
今岡御所【伊予市宮下】
1998/9/13
・市指定有形文化財(史跡)
・宮の下新池の堤上に碑が建っている。この碑は昭和56年(1981)に建てられたもの。
・弥生期の住居跡、皇霊天皇皇子伊予親王(河野氏遠祖)の居住地と伝えられる。
・茶臼山にある。茶臼は前方後円墳と関係があるところから、陵跡と推定されるが、伊予皇子が伊予に来られた確かな文献がなく、地方豪族の墳丘とも考えられる。
・ここには、彦狭島命と大小市命を祭る今岡神社があったが、今は池の堤防になっている。
端の左衛門の墓【伊予市三秋 端】
・市指定有形文化財(昭和59年指定)
・端の左衛門は鉄砲撃ちの名人。
・墓碑には「釋明好秋運墓」、「元禄七甲戊歳(1694)8月16日」と刻まれている。
端の左衛門に纏わる伝説
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稲荷神社の藤【伊予市稲荷】
中央構造線ハノラ谷露頭A
1997/5/11
・所有者:大平 谷口勝美
・市指定文化財(天然記念物)(昭和52年2月19日指定)![]()
宮内小三郎邸【伊予市】
・灘町通りにある。・灘町は寛永13年(1636年)に宮内九右衛門・清兵衛の二兄弟が、藩主加藤泰興から土地を譲り受け、開拓した・宮内小三郎は九右衛門の孫にあたる。・宮内小三郎家は幕府の巡見使や伊能忠敬測量隊の本陣を務めた。・(大洲の臥龍院を手掛けた棟梁)中野虎夫による建築物。
金石常夜燈【伊予市下吾川】
・「石鉄山」(南面)、「大神宮」(東面)、「金毘羅」(北面)、「天保十四癸卯年四月」(西面)
・天保14年は西暦1843年。
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鹿島城【伊予市中村 台山】
2001/9/16
・法寿院の右脇から、小道を約330m登ると山頂部に辿り着く。
・「東西北に横四間(約7m)余、深さ三間(約5.4m)ばかりの堀有り」(大洲秘録)
・城主の墓石には「当鹿島山之城主前周頭左近衛中将藤原盛保墓」と記されている。
・標高90mの山頂部には桜の木が沢山植わっている。山頂西側に回り込めば見晴らしも良い。
・山頂南には天主の跡地があり、祠の礎石らしきものが残っている。
・前近衛中将助安が居城した。鹿島山法寿院に位牌があり、「法寿院殿玄清居士」と戒名が記されている。
・大洲旧記には、「左近衛中将藤原助安居る 大城なりしや 六町程へだてて堀の中家 中屋敷という所あり」と記されている。
白滝城跡【伊予市両沢】
2002/9/8
・標高503m。
・山頂付近には3面の郭、その下3ヵ所に堀切がある。
・鎌倉時代、河野氏の臣越智氏が城主となり、次いで中村氏が継いだ。
・元弘の乱(1332)には幕府方で戦い、軍功により米湊・稲荷五百石を加増された。
・天正年間(1573〜1596年)は、中村主殿頭の居城であったと言う。
「両澤村にあり 中村家旧記に云ふ 河野通信郎従谷田八郎越智経孝温泉郡中村郷に住す 承久三年河野家故有って中絶す 然れとも将軍実朝公経孝か射能あることを聞き其の罪を赦し弓道を試み給ふ賞として浮穴郡両澤村白滝城主とす 知行三千石の地を領す 此に於て谷田氏を改め中村左近将監といふ 其子中村主殿経実は 平岡遠江守舎弟経孝甥なり 養子として白滝城主時に応長二年其子左衛門尉経友元弘二年の乱に河野対馬守通治に従い軍功に依って五百石の地を加増す 稲荷米湊村なり 中村主殿頭経武實は福角與五郎二男経友養子とし 経武は與左衛門父なり 谷上山宝珠寺代々の菩提所 家紋は輸違須浜七ツ星なり 右欠損のまま寫す 其の後中村白滝を退き外山村田中に屋敷を構へ居住すと大洲旧記に見ゆ」(伊豫温故録)
森ノ城跡【伊予市森】
「森村に在り 天正の頃熊権兵衛これに居ると云ふ」(伊豫温故録)
大平城跡【伊予市大平】
「大平村に在り 大野氏の属将東宗太これに居る」(伊豫温故録)
天神ヶ森城跡【伊予市大平】
「大平村に在り 森山城と云ふ 森山伊賀守代々これに居る 伊賀守は河野通尭〜初代の通直〜の時にも同名の人あり 通尭九州へ渡り征西将軍懐良親王に謁す 其の跡へ足利の将細川頼之討ち入り伊予を押領せしかば 河野の旧臣森山伊賀守及び山形吉田宇和島と與に高縄城に拠って河野家■復の義兵を挙げしが細川氏の為めに同城にて討死せしも 此義挙に因つて通尭九州より帰り細川方を追退け遂に伊予を取返しけれは森川氏も子孫長く此城主となり居住せし 城山の麓に墓所あり 又下唐川村にも森山氏代々の墓ありと云ふ」(伊豫温故録)
森山城跡【伊予市】
・讃岐の福川頼行が伊予に侵攻してきたとき、河野家の家老職を務めていた森山伊賀守は、義兵を挙げて高縄城で防戦したが、敢え無く討死した。しかし、その後河野通尭が九州から戻ってきて細川氏を撃退し、伊予を取り戻した。
・その後、子孫は代々森山城主としてこの城に拠った。
森山神社
伊賀守の墓(森山伊賀守供養塔)
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伊予岡古墳【伊予市上吾川】
嶺昌寺古墳【伊予市三谷】
尾崎天神下古墳【伊予市尾崎】
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・市指定有形文化財(史跡)
・横穴式石室を持つ円墳。
猪之窪古墳【伊予市宮下】
・市指定有形文化財(史跡)
・標高約180mの山腹斜面にある。
・この古墳で発掘された古墳時代前期の人骨は、長泉寺本堂に保存されている。客池古墳【伊予市上三谷】
城山古墳【伊予市上三谷】
塩塚古墳【伊予市上三谷】 →圃場整備により消失
遊塚古墳【伊予市上三谷】 →圃場整備により消失
五輪塔(塩塚2号古墳)【伊予市上三谷】 →圃場整備により消失
・「三界萬霊」と刻まれている。
・享保6年5月24日に造られたもの。
「日本三大瘡護稲荷は大阪府高槻市の稲荷大明神、江戸感応寺黒門際、小石川御薬園の北の3ヶ所である。
諸人瘡護稲荷を称えて諸瘡の平癒を祈願した。皮膚病の神として治癒を祈る時に土の団子を供え満願のときに効があれば米の団子に供え替えて諸供物をした。
霊験あらたかであり諸人の多き参詣するところなり」
| ■増福寺沿革
「護国山増福膳寺は正徳5年開山 桂峯 宣益禅師を勧請し大洲藩長隠居寺潮音堂として信仰を集め 延享4年見山勧兵衛慰創建により増福寺を開基、昭和13年第10世禅恕和尚大禅師により再中興され、近隣にない風格ある禅寺として仏法興隆に寄与しております。 1.本尊 如意輪観音菩薩
史蹟
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・鹿島城の辰己の方角に当たる。
・この近くに矢の窪というところがあり、矢の根を多く掘り出した。
・県指定文化財(史跡)
・伊予津彦(伊予地方の豪族)の子孫の墓と推測される。
・円墳8基、前方後円墳2基から成る群集古墳。
月陵
・前方後円墳
・伊予市指定文化財
・明治39年(1906)5月、日露戦争から帰還した氏子23名により奉納された。
・絵馬には負傷したロシア兵を介抱する日本兵(赤十字の腕章をつけた救護兵)の姿が描かれており、敵味方を超えた博愛精神が評価されている。
・平成9年(1997)4月、奈良県の元興寺文化財研究所で修復処置を行った。
マツ、ホルトノキ、タブ、クス、クロガネモチ、カクレミノ、カゴノキ、【境内末社】
ヒメユズリハ、ツブラジイ.....
神名石
・旧松山藩の学者で、正岡子規の書道の師・武知五友の書。
・「山静似太古」(山静かにして太古に似たり)、「日長如小年」(日長くして小年の如し)と刻まれている。
恵比寿神の功徳は商売繁盛、大漁。商売や事業を拡大、繁栄へと導く。
・境内には多数の末社がある。その一番北端になにやら謂れが記された碑が建っている。
※「なるほど、五色姫は入水自殺で死んでしまったものだとばかり思っていたら、このような復活譚も残っているのだな...」と感心してしまう。
| まっこう鯨が泳ぐ。なぜか郡中沖に住みついた明治42年早春である。どこかに姿を消してほしいと漁民は願う。捕鯨の経験を持たぬ湊町漁民の素朴な願いがあった。
大鯨は姿を消さぬ。しびれをきらした湊町漁民はついに捕鯨に立ち上がる。大網を使った捕鯨作戦も見事に失敗した。網などで獲れる相手ではない。協議の末、浜代表は馬開捕鯨会社(下関市)に応援を求めた。
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谷上山【伊予市上吾川】
・
2001/7/8、2003/5/17
・標高 455.5m。
・伊予市八景(市制40周年記念選定)
・四国の自然100選(昭和61年選定)
・この公園は、皿ヶ嶺連峰県立自然公園(昭和42年指定)の一部をなしている。
谷上山公園
◎第1展望台
◎第2展望台奥院夜光井 愛媛尊旧蹟 田道権現 大正10年9月
夜光の池
正岡子規句碑
行道山【伊予市】
2001/7/8
・標高 403m
・頂上に八大龍王社の祠が有る。明治44年(1911)に祀られたという。現在は伊予神社(伊予市上野)の境内社「時雨神社」へと移されたという。
・南側一帯に弥生時代中期の遺跡がある。
障子山【伊予市/砥部町】
1999/10/16、2001/8/25
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園
・伊予市八景(市制40周年記念選定)「鵜の崎峠と障子山」
・別名、大戸山とも呼ばれる。
白滝山【伊予市/砥部町】
明神山【伊予市三秋】
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・伊予市八景(市制40周年記念選定)「三秋の大池と明神山」
西権現山【伊予市稲荷】
2000/11/5、2002/9/8
・伊予市八景(市制40周年記念選定) 「稲荷神社と西権現山」
石鎚大権現
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稲荷神社の藤【伊予市稲荷】
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・伊予市指定文化財天然記念物(昭和35年8月1日指定)
・根廻り1.6m、1.2mの2株から成る。
・のだふじの変種
・正徳年間(1711〜1725)頃、神主高市盛正の願により植えられた。
西願寺のソテツ【伊予市三秋 西願寺】
ソテツ【伊予市大平梶畑】
2001/1/28
・県指定天然記念物
・梶畑集会所の上側の公園敷地内にある。
・根廻り9m、樹高10mの巨樹であったが、台風の影響か、その雄姿は今では過去のものとなっている。しかし、死んではいないのが唯一の救いである。![]()
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鵜の崎峠【伊予市/砥部町】
1997/5/11、2002/9/8
・伊予市八景(市制40周年記念選定)「鵜の崎峠と障子山」
鵜ノ崎峠化石層地帯
砥畦峠【伊予市/砥部町】
| 由緒沿革
塩塚古墳
遊塚古墳
五輪塔(塩塚2号古墳)
その他五輪塔等
右古墳群を圃場整備に伴い発掘調査したためこの地に併合合祀した。この伊予三谷の先人霊を地主神として永久に祭るものとする。
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| 1.谷上の峰の朝ぼらけ
晴朗の気は みなぎりて 松に千歳の響きあり いざや我等 高くかざさん 自主の光 ゆるぎもあらす |
2.伊豫の広野のかげろえば
地にらんまんの花ひらき 空によびこう あけびはり いざや共に 手を取りゆかん 希望の丘 足音高く |
3.瀬戸の八潮路 色映えて
島山遠く風かおる 調べも深き五色灘 いざら我等 共にこぎでん 自由の天地 血潮はたぎる |
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えひめ森林公園【伊予市上三谷】
学習コース
らくらくコース
探鳥コース
渓谷探訪コース
たんれんコース
句碑巡りコース
| 1 | 銀杏ちる深空あをあを澄みまさり | 五十崎古郷 |
| 2 | 赤椿さいてもさいても一重哉 | 正岡子規 |
| 3 | 思ひ出は悲しい熟柿おちてつぶれた | 種田山頭火 |
| 4 | あをぎりの一群落を見つつゆく | 酒井黙禅 |
| 5 | 月待つと赤松山をさまよいぬ | 石田波郷 |
| 6 | 山茶花に夜降る音は霰かな | 松根東洋城 |
| 7 | さやに咲く芙蓉の朝はたふとかり | 五十崎古郷 |
| 8 | 桐一葉おのれの影にかぶさりぬ | 芝不器男 |
| 9 | 夏木立栗の花散る笠の上 | 森田雷死久 |
| 10 | 夾竹桃赤いものを振り捨てんとす | 河東碧梧桐 |
| 11 | かたまりて紅紫や花ずおう | 酒井黙禅 |
| 12 | 連翹に見えて居るなり隠れんぼ | 高浜虚子 |
| 13 | 木蓮や闇より開き月の夜々 | 鬼子坊 |
| 14 | えごの花一切放下なし得るや | 石田波郷 |
| 15 | 白芙蓉残んの月の涼しさよ | 村上霽月 |
| 16 | 橡の花見つけつつゆくたのしみある道 | 篠原梵 |
| 17 | 卯の花の曉寒し二十日月 | 村上霽月 |
| 18 | 道がなくなり萩さいてゐる | 種田山頭火 |
| 19 | 紫陽花はおもたからずや水の上 | 富田赤黄男 |
| 20 | 山梔子の一花開き匂ひかな | 酒井黙禅 |
| 21 | 時鳥槐の花のこぼれけり | 村上霽月 |
| 22 | 若竹に降り過ぐる雨や小石ほど | 松根東洋城 |
| 23 | 春かぜの杉むらゆすりさわたればしずくするごと杉の花落つ | 長塚節 |
| 24 | 錦木の芽に降る春の小雨かな | 森田雷死久 |
| 25 | 咲き満ちてこぼるる花もなかりけり | 高浜虚子 |
| 26 | 青き中に五月つつじの盛り哉 | 正岡子規 |
| 27 | ほろほろと椿こぼるる彼岸かな | 正岡子規 |
| 28 | 焼山に松苗植うる彼岸かな | 鬼子坊 |
| 29 | 茶の花は雄薬の奢日は沈む | 中村草田男 |
| 30 | ひそと青し檪林にあそぶ子は | 石田波郷 |
| 31 | 一弁散り一弁朴のほぐれゆく | 河東碧梧桐 |
| 32 | 花馬酔木揺れやむときのうすみどり | 芝不器男 |
| 33 | 窓にふれアカシアの花露を残す | 篠原梵 |
| 34 | 馬酔木折って髪に翳せば昔めき | 正岡子規 |
| 35 | 木犀の香に惜みてもあまりあり | 篠原梵 |
| 36 | 世の中やひとり花咲く百日紅 | 正岡子規 |
| 37 | わが旅の紅葉いよいよ濃かりけり | 高浜年尾 |
| 38 | 萩をでてまた萩に入る小徑かな | 柳原極堂 |
| 39 | 花ざかり梢にさそう風なくてのどかに散らす春にあはばや | 西行 |
| 40 | 折り持てる山吹雪にしなひをり | 高浜虚子 |
・彩浜館は、明治27年(1894)に郡中町の有志により集会所として建てられた。・木造寄棟造り。・日露戦争時には、松山に収容されていたロシア人捕虜将校を接待した。・明治42年(1909)には、伊藤博文が来遊している。・平成元年(1989)に改築。
さざえ堀
文化9年(1812)、大洲藩がこの地に萬安港を築いたとき、螺旋階段のように石を積み、砂をもりあげて作った井戸である。井戸の水は、港の海水の動きとともに上下するので、これによって潮の満ち干を知ることができた。形がさざえに似ているので、こう名づけられた。かっては、この井戸に鯛を飼っていたことがある。
愛媛県厚生年金休暇センター【伊予市】
愛媛県中予水産試験場・森漁港【伊予市森】
1994/7/01
1994/7/1 一人でこの界隈を散策
1994/7/2 佐藤家と海岸でバーベキューをする。
愛媛県中予水産試験場
・第13回全国豊かな海づくり大会(平成5年(1993)11月7日)開催地。
・第1回えひめ水産まつり(平成6年11月6日)開催。
・海岸沿いはこのため整備が行き届いており、防波堤には児童による海の絵が描かれている。
愛媛県中予栽培漁業センター
天皇御製歌碑
「県の魚 またひの稚魚を 人々と 共に放しぬ 伊予の海辺に」第1回えひめ水産まつりで除幕された。
※またひ=まだい=真鯛:県魚として選定された。
夜光の池(弥光井、真名井)【伊予市上吾川谷上山】
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・月夜見比売と愛比売に二尊が降臨した場所と謂われる。
・大山津見・鹿屋野比売・熊野三所大権現を合祀し、田神大権現と崇められている。
・天暦6年(952)8月、筑紫の領主太宰大弐国光が京に上る途中、伊予の沖で大嵐にあい、その時、谷上山の夜光の池から光がさし、不思議に嵐が静まり九死に一生を得た。国光は谷上山の観音様のお蔭を深く感銘し、この恩に報いるために荒れていた寺院の再建につくしたと伝えている。
・この夜光の池は山頂に有りながら大昔から一度も水が涸れた事がなく、近くには雨を呼ぶといわれる水神竜王を祀った小祠がある。
夜泣き石【伊予市稲荷】
(*1)源義経との戦い。
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新川海水浴場【伊予市下吾川】
・伊予鉄郡中線新川駅で下車し、西へ約200m行ったところにある。
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