![]() |
松前町(Masaki Town)このページの最新更新年月日は |
![]()
(1).「緑と水辺豊かなパークタウン松前」
(2).「視界新鮮 ふれあいさわやか 松前町」
![]()
町の花 町の木 町の花木 町の鳥 ヒマワリ 松
![]()
![]()
松前町役場 (TEL)089-084-2111
・明治22年、北黒田村、浜村、筒井村(以上松山藩領)、南黒田村(大洲藩領)が合併して松前村となった。
・大正11年、町制を施行し、松前町となる。
・昭和30年3月、北伊予村、岡田村を合併した。
・かつては、松山藩主・加藤嘉明が松山城を築城するまでは城下町として栄えた。
大字 字
![]()
![]()
![]()
![]()
義農の墓【松前町 義農公園】
・県指定史跡(昭和28年12月指定)
・松山藩主・松平定静(まつだいらさだきよ)が、安永6年(1777)、「義農之墓」と彫った墓標を建てた。
・その石碑の背後に義農作兵衛の本墓がある。
義農神社
![]()
![]()
なんじゃもんじゃの木【松前町 愛媛亜熱帯植物園】
・県指定天然記念物![]()
松前城跡【松前町筒井】
1998/3/8
・町指定史跡(昭和44年指定)
・築城年代は未詳。平安時代初期すでにこの地に定善寺(性尋寺、今の金蓮寺)があり、軍事・交通の要衝として境内に砦が設けられたのが始まりであろうといわれている。
・松前城の文字が初めて文献に現れるのは、建武3年(1336)、祝安親軍忠状である。「大山積神社文書」によると、南北朝時代、南朝方の合田弥四郎貞遠のたてこもる「松崎城」を北朝方の祝彦三郎安親が攻略したとある。(松前城主・合田弥四郎貞遠と、湯築城主・河野道盛(こうのみちもり)が戦ったともいう。)
・後に大森彦七も居城したという。湊川の戦に楠木正成を討った功により、砥部の豪族大森彦七が松前城主を兼ねたが、やがて荏原の平岡氏と交替する。
・正平年間(1360年頃)穴草入道、同出羽守らが松前城にいたが、南朝方で九州に赴いていた河野通直が大兵を率いて松前浜に上陸、松前城を攻略した。
以後、松前城は河野氏の本拠湯築城の西方海上防衛の出城となった。
その後、河野氏の武将栗上因幡守通宗、同但馬入道通閑らが松前城にいたが豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻し来り、松前城攻防の激戦が幾度となく繰り返された。
・天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐があり、河野通直は侵攻群総帥小早川隆景の軍門に降って栗上氏らと共に安芸竹原に退去した。
・天正16年(1588)、栗野木工頭秀用が松前城主となったが、秀次事件に連庄除封された。文禄4年(1595)、朝鮮の役で戦功をあげた加藤嘉明が淡路志智城より6万石をもって松前城に入った。翌慶長元年(1596)、嘉明は足立重信らに命じ金蓮寺を現在地に移転、伊予川を改修して城郭及び松前港の大拡張を行った。
・「松前」は、古来「松崎」、「真崎」、「正木」、「柾木」、「満崎」等書かれており、「松前」に定着したのは、寛永12年(1635)松平定行入国以来である。
・松前城の規模は明確ではないが、地の利を得て自然の要害堅固の城であった。慶長2年(1597)には嘉明は松前城を根拠地として2400余名の将兵を率いて朝鮮に出兵した。
・慶長5年(1600)関ヶ原の戦に嘉明は東軍に従って出征したが、留守に毛利勢3000が三津浜に上陸、河野氏の残党と松前城をうかがったが佃十成らの勇戦により撃退した。
関ヶ原の功により20万石となった嘉明は慶長8年(1603)松山城に移り、松前城は廃城となった。
・天保以降二の丸を耕地化し、余り土を盛った所が現在地である。
・明治42年耕地整理により様相は一変し、大正11年11月23日龍燈の松が倒壊して松前城を偲ぶものがなくなった。
・大正14年10月記念碑を建立し、昭和44年町に指定史跡となった。●塙団右衛門
安土桃山時代の武将。出生は明らかではないが1550年頃、遠江に生まれたといわれる。名は直之、18歳の頃、織田信長に仕えた。義侠心に富み、友情は厚かったが、直情__、独断__するところがあった。やがて士分に取り立てられたが、酒豪で酒癖が悪く泥酔して人と争い傷つけたので追放された。
その後、京阪を徘徊していたが、ふとした縁で加藤嘉明に仕え、順次大功をたて累進し銃隊長となった。以来、嘉明に従って各地を転戦し大豪の士として認められるに至った。
数々の武功により禄千石を食むようになったが、____、嘉明の軍令を守らず、__の傾向があったため、嘉明に「生涯人の将たり得ず」と罵られて激怒し、床柱に「遂不留江南野水 高飛東海一閑鴎」と墨書して松前を去った。松前を去るにあたり、団右衛門が城を懐かしんで小川の橋の上に佇み、名残を惜しんだ石橋が平田東助撰文の「義農頌徳碑石」であると信じられている。
流々の後、豊臣家に仕え、大阪夏の陣では部下3000余騎を率いて勇戦奮闘したが、元和元年(1615)5月敗死した。
筒井門柱礎石【松前町筒井 善正寺】
・町指定史跡
・正方形の御影石2個から成る。![]()
![]()
![]()
![]()
出作遺跡【松前町出作】
![]()
中村草田男寓居跡【松前町】
1994/7/1、1998/3/8
・松前港南西沿岸
・今はただ駐車場脇に石標だけが残るのみである。
「具寄風に乗りて帰郷の船迅し」
墨水小学校跡碑【松前町上高柳】
![]()
・明治6年11月9日、武市英俊は上高柳村長と相計ってこの地区に小学校を建てた。
・この学校は明治20年、村内統一まであったという。
鷲野南村塾跡 【松前町南黒田】
・宗通寺より南へ。
義農作兵衛終焉の地【松前町】
1998/3/8
![]()
吉祥寺【松前町出作84番地】
1993/12/26
・山号:高照山
・院号:大徳院
・宗派:新義真言宗 豊山派
・明和8年(1771)の「寺院判鑑」には「......久米郡浅生田村善宝末 弘照山 金剛院 吉祥寺」とあり、天保年間に山号、院号を改称した。
教明寺【松前町北川原182】
1998/2/15
・山号:臨海山
・院号:西光院
・宗派:真言宗智山派知積院(京都)
・本尊:無量寿如来(別称:無量光仏、阿弥陀如来)「彼の仏を何が故に阿弥陀と号し奉る。舎利弗よ。彼の仏の光明無量にして十方の国を照らすに障礙する所なし。この故に号して阿弥陀となす。」(阿弥陀経)
・「寺院取調書」によると、延宝元年(1673)8月、忍穂和尚により開山された。
・元禄10年(1697)、法印権大僧都真快和尚の代に、大種那栗田八右衛門、庄屋栗田次郎左衛門により再建された。(棟札)
・「寺院判鑑帳」(明和8年(1771))にも当寺の名が見られる。
・明和8年(1771)、「寺院判鑑帳」によると
本寺高野山金剛三昧院
真言宗 臨海山 西光院 教明寺
宝暦12年2月入院 実名 本龍
とある。
・本堂は昭和9年弘法大師遠忌に改修・再建された。
・地蔵堂は昭和59年12月、金亀舗装により改修・再建された。
・境内の大蘇鉄は樹齢約200年、高さ10mに及んだが、昭和53年の強風により倒壊した。
・山門脇の生け垣の中には、北川原三十三観音の一番札所「如意輪観音」が祀られる。
・当地区は「四時園(しじえん)」大原基戎「明栄社」系の俳諧が盛んで、「全戸俳句をたしなむ」といわれる程であった。
・本堂正面奉掲の俳額は明治11年当寺で行われたもので中予地区俳諧の状況を知る貴重なものである。
・大原基戎は、奥平鶯居と並ぶ近代末期の県下の二大宗匠であった。
・当寺は句会の中心地で堂内には「無物庵浮世」(忽那久吉)撰「本堂改築記念発句奉額」があったが破損した。
・先代河合住職は俳人森田雷死久、亀岡「長本寺」俳人・漢詩人大原基戎は、大河内瑞学らと親交、当寺は北河原地区及びその周辺の人々の仏教信仰、文化活動の中心地であった。
教深寺(きょうしんじ)【松前町大字大間330番地】
1993/12/26、2002/9/8
・宗派:真言宗豊山派
・山号:医王山
・院号:瑠璃光院
・本尊:薬師如来座像
・総本山:長谷寺(奈良県桜井市初瀬)・文亀2年(1502)全蓮寺7末寺の一寺として建立されたとも伝えられ、また明治初年の「寺院取調」によると、延宝7年(1679)仁良和尚の開山とも記され当寺の「萬記録」によれば享保10年(1725)開基とも記録されている。
・明治8年(1771)筆書の「寺院判鑑」には、本寺 温泉郡石手村石手寺末
との記述がある。
真言宗 瑠璃山医王院 実名 教深寺
延京五辰年二月入院 本域
小松庵
明治初年頃近接してあった寺小屋。明教館出身の太田熊衛が子弟を教育していた。明治5年(1872)の学制頌布により学区制が定められ、翌6年に上高柳墨水小学校の分校になった。
大政金右衛門の墓碑(境内墓地)
・文化年間、自宅を家塾として子弟を教育し、その実績を藩庁に称揚された。
・墓碑には「寺子中建之 文政三年」と刻されている。
金蓮寺(こんれんじ)【松前町西古泉65】
1998/3/8
・山号:玉松山(ぎょくしょうざん)
・院号:十二光院
・宗派:真言宗智山派智積院(京都)
・本尊:薬師如来
・伊予十二薬師めぐり 第9番霊場・平城天皇の大同3年(808)11月、河野氏により開基され、文徳天皇の天安元年(857)弘法大師の法孫明実が入って寺の基礎を固め、貞観元年(859)玉生八幡の大別当を兼ねた。
・後堀河天皇の寛喜3年(1231)唐僧明海が渡来し、寺に入って大いに堂塔を整備し、仏法の流布につとめ、後堀河天皇の病気平癒を祈願して功あり、中興開基とたたえられ、寺は「天下静■御祈願所」として勅願道場となった。
・古文書によれば、明海が渡来し、松前海上に泊まった時、船に触れるものがあり、取り上げてみると薬師如来であり、大いに喜び堂を建立して安置供養した。その頃、寺院の松の梢に光明かがやき「松山名所尽し」に「建立ありし御寺は、玉の御殿の金蓮寺、光を残す龍燈の松の栄えぞめでたけれ」とうたわれた瑞■があったといわれる。
・建武年間(1336頃)、太平記で著名な大森彦七が猿楽を催し、楠正成、源義経の七霊に悩まされ、「大事金蓮寺(おおごとこんれんじ)」なる俚諺を生んだのが有名である。大事金蓮寺とは、思いがけない事に出くわし、大慌てすることを意味する。
・以来、藩主・武将の崇敬篤く、後土御門天皇の明応2年(1493)河野教通が、同5年(1496)河野通元がそれぞれ禁制を掲げて保護にあたっている。
・後陽成天皇の文禄4年(1595)加藤嘉明は、松前城築城のため金蓮寺を現在地に移し、慶長6年(1603)5月20日には米穀を寄進している。
・明正天皇の寛永16年(1639)、松山初代藩主・松平定行は、毎年米穀を寄進することを命じている。
・承応年間(1653年頃)以来、堂塔完備し、四方八町の免租地・末寺七寺を持つ中本山として繁栄した。
・享保17年(1732)の大飢饉に麦種を守って餓死した義農作兵衛の霊をまつる菩提寺としても有名である。
・現在は伊予十二薬師霊場の第9番札所となっている。
・現本堂は、昭和50年の再建である。
「金蓮寺は松前村にあり。寛喜3年(1231)、唐僧・明海上人の開基なりといへり。俚言集に言ふ。後堀川院(86代天皇 (1221〜1232))」御病いの時、明海を召され 修法ありければ、御病い平癒し給へり。その賞として、永世この地を賜はり、伽藍を建立せり。文禄4年(1595)、加藤嘉明朝臣(あそん)この寺を引きて、その跡へ松前城を築き給へり。この寺、古は性尋寺と言ひけるを、この時金蓮寺と改む。四方八町免許地なり。大森彦七盛長の鬼女に会ひしは、この所の事なりと言へり。」(半井悟庵「愛媛面影」)
・国近川の上流は、矢取川の付近まで遡っているが、直接連結はしていない。しかし、国近川の水が今も濁っているのは、矢取川から鬼の血が流れてくるからという。
西沼寺【松前町永田】
西沼寺(さいじょうじ)【伊予郡松前町恵久美(えぐび)267】
2001/7/8
・山号:宝珠山
・院号:地蔵院
・宗派:真言宗豊山派(本山:奈良 長谷寺)
・本尊:地蔵菩薩
・寺伝によれば、文亀2年(1502)、国司の命により、金蓮寺の7末寺の一つとして創建された。
・宝暦年間(1751〜1763)、石手寺の末寺となったが、現在は奈良県桜井市初瀬町総本山長谷寺の末寺となった。
・宝永8年(1779)本堂を再建した。現在の本堂・庫裏は昭和2年(1927)に建築されたものである。山門はそれよりも古く、明治初期に建てられたものである。[2001/7/8探訪時には、本堂・庫裏とも影も形もなく、山門のみが残ってた。]
・明治初年、当時の恵久美村里正(りせい)(明治3年庄屋の名称を里と改称)和田家当主の懇望により、武智五友(ごゆう)が寄寓し、近辺の子弟の教育に努めたという。
・境内の一隅には恵永学校(明治7年開設)が開設されていた。岡田郷各村に設立された学校を統合して、現在の岡田小学校となった。
宗通寺【松前町北黒田】
1996/11/27, 2002/4/30
・山号:南光山
・院号:慈悲院
・宗派:真言宗智山派
・京都智積院の末寺
・本尊:十一面観世音菩薩
・開山・縁起不明であるが、真光寺(戦国時代に戦乱により焼失、現在では若干の礎石が貴布祢神社南方に残っているのみ)の塔頭(本寺に属する寺)の一つであったといわれている。
※我が家初の飼い猫「じん」(行方不明)を拾った所であり、思い出深い場所である。
本性寺【松前町】
善正寺【松前町筒井225】
1998/3/8
・宗派:浄土真宗本願寺派
・山号:松光山
・本尊:阿弥陀如来
・本山:西本願寺(京都)
・当寺は、天正4年(1576)2月、宗祖親鸞聖人11世の法孫顕如上人の法弟了学上人の開基である。本尊木像の阿弥陀如来は、寛文11年(1671)当寺の第2世釋順如の時本山より下附されたものと伝えられている。
・本堂は明治41年(1908)再建され、山門は寛文年間に左甚五郎の弟子の作と伝えられている。境内には、明和5年(1768)所謂「矢野騒動」で不慮の死を遂げた松山藩士竹村紋太夫の供養碑がある。又、伊予絣の創始者鍵谷カナ女(普益院釋慈光妙照大姉)、三秋の開拓者である加ノ左衛門(鉄砲の名手)も当寺の檀徒である。
・寺宝には、開基仏阿弥陀如来絵像、親鸞聖人絵像、聖徳太子絵像、七高僧(籠樹、天■、曇鸞、道■、善導、源信、源空)絵像、親鸞聖人御真筆と伝えられる「不■■■■涅槃」の一行物がある。
史跡:伊予絣創始者鍵谷カナ女由緒の寺
史跡:鉄砲名人畑の佐古ェ門由緒の寺
史跡:矢野騒動竹村紋太夫由緒の寺
筒井門柱礎石
・町指定史跡
大智院【松前町筒井】
1998/3/8
・宗派:浄土宗
後藤又兵衛の墓
戦国時代、播磨国(兵庫県)三本城主別所長治の臣後藤基国の子として生まれた。天正8年(1580)正月、三本城は豊臣秀吉に攻め落とされ、父基国は城主長治とともに戦死したため、幼少よりつぶさに辛苦をなめた。
・後、黒田長政に従って幾度かの戦いに参加した。文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出兵命令を受け、長政とともに朝鮮に渡り武■をたてた。慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いは長政に従って徳川家康に味方し、武名大いに上がって並ぶ者なき勇士と称えられた。1万6千石を与えられ、重臣の列に加わったが、主人長政と確執を生じ、浪人した。
・徳川家康と豊臣秀頼が反目するに及んで、家康よりの勧誘をしりぞけ、慶長19年(1614)大阪城へ入った。同年11月、大阪冬の陣には、抜群の武勇を現したが、翌元和元年(1615)5月大阪夏の陣に先手の総大将となって出陣し、討ち死にした。
・ところが、松前地区では、又兵衛は戦死とみせかけ、実は旧友加藤嘉明をたよって松前地区に逃れて百姓となり、地域の開発に努力したと語り伝えられてきた。この境内に2基の供養塔がある。これが後藤又兵衛夫妻の墳墓であると信じられてきた。筒井地区に「後藤堰」または「後藤新田」等の古地名が残っていたためである。筒井地区では、又兵衛の徳を称え、毎年供養料を大智院に納め、大智院住職は毎朝欠かさず又兵衛の霊に念仏を捧げている。
雪勝桜
大念寺【松前町筒井】
1998/3/8
・山号:潮音山
・院号:実相院
・宗派:浄土宗
・本尊:阿弥陀如来。天保13年(1842)2月、京都の仏師 山本茂助作と伝えられる。・正保4年(1647)皆連社(かいれんしゃ)真誉(しんよ)上人開基と言われる。
・昭和4年、境内に滝姫の侍女3人を合祀している。
坪内寿夫翁頌徳碑
・平成3年3月建立。
千蘿(せんら=玉井源七郎)句碑
「涼しさの 種なり竹の 植え処」
長徳寺【松前町西古泉83】
1998/3/8、2002/4/30、2003/6/29
・本尊:阿弥陀如来
・山号:松安山
・院号:貞穏院
・衆派:浄土宗鎮西派
子聖(ねのひ)大権現
・元禄年間、当寺第4世吟龍和尚(元禄6年没)が播磨国より勧請した。
日本唯一神仏混合の秘仏
開運招福の大黒天 子聖大権現
御開帳大祭 12年毎の子の年
初子祈願祭 毎年1月第3日曜日
御祈願内容 家内安全、家業繁栄、開運吉祥、諸病平癒、悪魔泰さん、厄除け
健康増進、交通安全、合格祈願、安産、子育、子宝、夜尿症 等々
七右衛門(供養地蔵尊)
七右衛門は、元文年件(1736〜1740)に西小泉の農家に生まれ、長じて筒井村の「矢野屋」の鍬先差配(くわさきさはい)として誠実に働き続けていた。
矢野屋は、近郷きっての大地主で、明和5年(1758)10月16日の籾すりは、夕方暗くなるまでかかり、その時、窓から人影がのぞいた。その頃盗難が多く、「泥棒」と早合点し、若者達が得物を持って追いかけ、5人中逃げ遅れた一人を天秤棒で撲殺した。
殺されたのは、松山藩士三津浜奉行竹村豆の二男竹村紋太夫であった。
首謀者の割り出しに、役人らは矢野屋小左衛門および奉公人に拷問を続けた。七右衛門は、矢野屋はじめ村人の難儀を思い、罪を一身に引き受けることを決心し、自分が直接責任者であると申し出た。明和6年4月27日首謀者として斬首された。松前地区では、これを「矢野騒動」と呼び語り伝えられている。
七右衛門は伊予の三義人の一人としてあがめられている。
松前町教育委員会
延命地蔵尊
・享保13申■2月24日 三界万霊......
河野頼友の墓
天長寺 【松前町横田】
句碑
「ふるさとの 2つの池や 己鳥来る」 可志久
「つばくらめ 百姓やめて 庭ひろし」 幸枝
不動院【松前町西古泉58】
1998/3/8、2002/4/30、2003/6/29
・山号:岩本山
・寺号:松泉寺
・本尊:延命地蔵尊
・宗派:真言宗
・開基は推古天皇4年(596)修験道開祖役小角の末裔高麗僧恵慈上人渡来の時といわれ、護国山阿遮羅寺と称し、七堂伽藍八坊が建立され隆盛を極めたといわれる。持統天皇の691年、洪水により堂塔流失、本尊の地蔵尊は岩窟に難を避けたと伝えられている。
・神亀5年(728)行基諸国霊場巡拝の時、この岩窟に憩うと翁出で来たり当寺荒廃の由来を語り、堂塔再建を請い、突如襲来した暴風雨の中に消え去ったという。行基堂宇を再建し、岩窟あるにより「岩本山」、松林泉水あるにより「松泉寺」、地揺るがざるにより「不動院」と命名した。
・孝徳天皇の「勅命修験道場」指定を受け、松前城主加藤嘉明も篤く信仰した。近世末期には、修験道の権威・阿闍梨法印が居住し、呪術・霊力によって民衆の危難を救い、済度して尊崇されたが、不慮の災害にあい遷化して人々に惜しまれた。
・因みに修験道には、真言醍醐寺三宝院末の「当山派」と、天台聖護院跡末「本山派」の二派があり、松山藩内では当山派が圧倒的に多く、西条藩では本山派が圧倒的に多く、均衡を欠くが、松前地区では明治初年まで当山派5、本山派6であった。
・不動院、長徳寺、金蓮寺と寺院が連なる所を「寺町村」と称した。改畝は13町9反1畝24歩、村高は136石6斗1升8合であった。天和2年(1682)古泉村に編入するのであるが、効率の免(税)に苦しめられた。寛永12年(1635)より天和2年までの47年間を例にとると、村高以上の免をかけられた年が36回に及び、最も低い年でも「九ツ二ツ」であった。10石できれば9.2石が税である。しかし地域及び周辺の人々にとっては聖地であった。
本性寺【松前町徳丸】
1996/11/27
・高忍比売神社の西側。
妙寛寺【松前町筒井宗意原1123】
1996/11/27, 1998/3/8, 2002/9/22
・宗派:日蓮宗(総本山:身延久遠寺)
・山号:日進山(旧 泰運山).....昭和49年(1974)日蓮上人生誕750年祭のときに改めた。
・本尊:十界大曼荼羅
・祭神:清正公大神祗(加藤清正公)・慶長8年(1603)、正木城主加藤嘉明が松山に築城移転した際、当地にあった妙円寺が共に移転したので、嘉明臣武井宗五郎貞通(号:宗意、嘉明の乳母の夫)がその跡地に法華庵を造り、宗意庵と称したことに始まる。
・武井家は代々有力な郷土の家柄で、特に宗意は嘉明に忠勤を励み、褒賞として馬の鞍を賜ったと伝えられ、今も宗意原等の地名が残る。
・嘉永2年(1849)、西高柳教願寺より清正公像を勧請した。(明治初期に教願寺は妙寛寺に合併した。)
・安政4年(1857)の大地震で本堂が壊滅し取り除かれたが、明治3年(1870)、妙円寺日寛上人がこれを再建し、妙寛寺と名付けた。
・明治30年(1897)頃、伊予市大平の天神堂を移し、これを本堂とした。
・境内には武井宗意の墓碑がある。
・明治42年3月23日、松前城跡開墾の際、発掘された松前城塔の礎石がある。
武井宗意の墓碑
松前城塔の礎石
![]()
稲荷神社[稲荷大明神]【松前町西高柳】
2002/7/7
・出合橋南側
・主祭神:稲倉魂神(うがのみたまのかみ)
・配神:田中神、太田神、級長津彦神(しなつひこのかみ)、級長戸辺神(しなとべのかみ)、稚産霊神(わらむすびのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、猿田彦神
・当神社は、別名「流宮神社」といい。聖武天皇の神亀5年(728)9月、造化の神、五穀の神として鎮座したと伝えられる。
・また高倉天皇の仁安3年(1168)、社地内の桜木の森に神霊現れ、光明輝き毎夜桝で物を量る映像が見えるので調べたところ、神体を発見、尊称して「高桝大明神」と称え、後にこの村を高柳村と名付けたので、高柳大明神と改めたという。
伊予神社(いよじんじゃ)【松前町神崎】
1993/12/26、2002/2/23
・JR北伊予駅から西へ約800m。
・孝霊天皇皇子、彦狭島命(ひこさしまのみこと)を主祭神とし、愛媛の総神愛比売命、伊予・久米両郡の開拓神 伊予津彦命、同妃 伊予津姫命、主祭神の御父 日本根子産太瓊命、御母 細姫命、13代成務天皇の勅を受けて伊予の国造に任ぜられた速後神命(はやしりかみのみこと、速後上命=はやのちあがり)を配神として祭る延喜式内社。
・第二次世界大戦までは県社であった。
・明治30年、境内の経塚から、経筒・磁器壷が出土した。
・河野氏系図・社記一巻が秘蔵されている。
五輪塔
岩崎天満宮【松前町永田】
蛭子神社【松前町本村】
恵比売(恵依彌)二名神社(えひめふたなじんじゃ)【松前町出作】
1993/12/26, 1999/1/2, 2001/10/7
・境内末社: 奈良原神社、金刀比羅神社、素鵞神社
・昔は伊予二名本宮と称した。
・「神社の創設は景行天皇の御代と伝えられ、主祭神・恵日売命、配神として伊豫津彦命、伊豫津姫命外14柱が祀られています。主祭神・恵日売命は、伊豫の国御霊の大神で伊豫の古宮として、往古から伊豫二名本宮と称されていました。その後伊豫大社五社大明神とも称され、本宮伊豫神社、伊豫二名神社、伊豫古宮、愛依日宮、正八幡宮の五社が境内に鎮座していました。社地6町四方に及ぶ大社として現在地の約100m北側に鎮座されていたが、慶長11年(1606)時の藩主・加藤嘉明公の命により、五社を一社に合祀し、再興がはかられました。元禄の頃は伊豫本社正八幡宮、享和年間には伊豫本宮恵依八幡宮、すなわち八幡様として崇敬されておりました。現存する最古の棟札には、寛文3年(1663)恵依彌二名本宮とあり、明治29年(1896)現在名に改称されました。また古書によると畳八畳が敷けるような楠が茂り、秋の大祭には見越し2体が渡御していたとあります」松前町教育委員会
「社殿建設記念」碑
・「平成10年春伊豫豆比古命神社から、社務所として設けている建物一宇を二名神社社殿に活用してはとの呼びかけがあり、氏子役員会にて調査検討の上当社拝殿として移築し、同時に中殿幣殿を新築したもので、この建物は昭和45年当時の旧社殿(寛文年間)でこの唐破風外主要部分を中心に社殿造の社務所として建替利用されていました。二名神社の元の社殿は元治元年改築されていたものです。」平成11年10月吉日 宮司 高市慶久
沖神社【松前町北川原松本】
1998/2/15
・祭神:住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)
・応安8年(1375)北川原開発奉行重川武衛門が塩どめを祈って小社を建立し、三神をまつって明神社(みょうじんしゃ)と称した。後に沖神社と改称した。
・古来住吉の神は、海路を守り給うといわれ、航海者は大変尊敬し、また中古以来和歌の神と称えられ、詠歌者の尊信するものが多かった。
・伝説によると、この神は沖より出現した神霊で、古来疫病鎮護の神として霊験があるといわれる。
・稲荷神社の境内末社である。
義農神社【松前町 義農公園】
1994/7/1
・義農作兵衛は、松山藩筒井村(現在の松前町筒井)の貧しい農家に生まれた。
・当時は儒教思想に基づく家族制度と、士農工商という厳しい身分制度が確立された封建時代であった。作兵衛は、幼い頃から農業に励んだ。
・享保の大飢饉のとき、人々は食べるものもなく餓死者が続出した。こうした中で作兵衛は、毎日休むことなく耕作に精励していたが、ついに飢えのため田圃に昏倒した。近隣の者が「命に変えられぬでの、その麦種を食べてはどうか。」と勧めたが、作兵衛は「農は国の本、種子は農の基。一粒の種子が来年には百粒にも千粒にもなる。僅かの日生きる自分が食してしまって、どうして来年の種子ができるか。身を犠牲にして幾百人の命を救うことができたら私の本望である。」と麦種一粒食することなく後世に残し、大儀に死した。
・安永6年、尊い彼の死に対し、藩主松平定静は碑を建立、明治14年には義農神社、そして明治45年には頌徳碑が建立された。
貴布祢神社【松前町北黒田】
1996/11/27
・和同5年(712)8月 越智玉純が大三島宮より大山積神、別雷神、高■(雨かんむりに龍)神を勧請(*1)して一ノ宮大明神と称していたが、神亀5年(728)9月、山城国より貴船大明神(岡象女神(みずはめのかみ))を勧請して貴船神社と号した。
(*1)崇竣天皇元年(584)8月23日、伊予国司越智宿祢益躬が勧請・創立したともいわれる。
・後に今の貴布祢神社と名を改めた。境内社:金刀比羅神社(祭神:大物主命)
境内社:一宮神社(祭神:上筒男之命)
境内社:塞之神社(祭神:八衢天神(やちまたのあまつかみ))
境内社:恵美須神社(祭神:大国主命)
境内社:真名井神社(祭神:多紀理毘売命)
境内社:和霊神社(祭神:和霊大神=山家清平衛公頼)
高市盛房先生之碑
・高市山城正(やましろのかみ)盛房(1825〜1906)
・鷲野南村門の逸材。庶民のために私塾を開いた。「村には不学の徒なく 伊唔の声 郷にみつ」
頭王神社 【松前町恵久美】
住吉神社【松前町浜(新立)468】
1994/7/1、1998/3/8、2002/9/22
・松前港西沿岸
・主祭神:和田積神、素戔鳴神
・境内末社:金刀比羅神社(大己貴命)「和田積神」は「古事記」「日本書紀」によると天地創造の神、伊弉諾神(いざなきのかみ)が海底・海中・海面で身禊(みそぎ)をしたときに出現した「海」を主宰する住吉の大神(すみのえのおおかみ)、底筒男命・中筒男命・上筒男命である。
第14代仲哀天皇の9年、神功皇后(?〜269)の御乗船と守護して神威を顕し、皇后はその夢告により9本の藤の枝を流して漂着地を住吉の大神の奉斎地としたといわれ当地がその一つとされている。
慶長年間(1596〜1615)改めて大阪の住吉神社を勧請、明治43年1月信徒相寄り神殿を寄進して篤く奉斎した。本殿は総本宮と同じく切妻造り、「妻」を正面にした住吉造りである。
素戔鳴神は、「建速須佐之男神」とも申し上げ、伊弉諾神が左右の御目を「身禊」されて天照大神、月読神が出現し、ついで御鼻を「身禊」された時に出現した神で、出雲国に降下し国土開発・農耕指導・平和・正直・清浄の人文神であると共に、それらを破壊する自然神でもあり「お須賀様」と畏敬奉斎されてきた。
境内末社御祭神の「大己貴命」は御子または六世の御子孫ともいわれ、「大物主神」、「大国玉神」、「顕国玉神」「葦原醜男神」「八千戈神」「大穴牟遅神」とも申し上げ、「少彦名命」と共に天下を巡遊して国土開拓、農耕指導、温泉開発、医療、禁厭の法を制定され、「出雲の神様」、「大黒様」と親しまれ、尊崇されてきた神である。
住吉神社は、往古より海上の安全守護の神として漁民を護り、豊漁を授け、沃上の開発と療養健康保持、家内安全幸福を守る神として尊崇奉斎されてきた。宝物に具足一具、奉納獅子舞の獅子頭は明治6年製作の物、近辺で最も古く秀作である。
境内の「寄付芳名碑」は、松前商人が砥部焼全量を「からつ船」で販売したことへの感謝をこめ、砥部窯元全員が寄進した芳名録である。
松前町制実施記念碑
素鵞神社【松前町大字大溝字叶田】
2000/6/10
・祭神:素戔鳴命[武塔天神(ぶとうてんじん)、牛頭天王(ごずてんおう)]
・配神:大山咋神(おおやまくいのかみ)[山末之大主神]
・伊予川(重信川)の左岸に位置する大溝地区は、水に恵まれた地の利を得た地域である。従って治水工事のいかんでは恵まれた環境も左右されてしまう。大溝では、開拓・治水工事の祖神である大山咋神を祀って、村の進展に努力をしてきた。その結果、元禄元年(1688)の「伊予郡廿四箇村手鑑」による平均耕作面積は約7.3反で、町内では屈指の裕福な農村となっていた。
・慶長3年(1598)、疫病が流行したので、玉生八幡神社の神主が「熊野三社宮」を勧請して祇園社(大王社)を建立し、主祭神として祀った。以後、明治の初年に「素鵞神社」と改称するまでは、「おてんのうさん」と親しみ呼んでいた。
素鵞神社(そがじんじゃ)【松前町大字東古泉一ノ関225番地】
2000/6/10
・祭神:建速素戔鳴命(たけはやすさのおのみこと)
・配神:日速彦命(ひはやびこのみこと)、三女大姫神(さんじょおおひめのかみ)
・寛喜4年(1232)6月17日、国司・河野通尚(みちなお)が性尋寺(金蓮寺)に来訪していた明海禅師(みんかいぜんし)に命じて、玉生八幡大神社の祭神である三女神の分霊を安置して弁天社(市杵島姫命を祀る)と号した。
・その後、慶長3年(1598)6月に疫病が流行したので、玉生八幡大神社の神主が時の領主・加藤嘉明に請って熊野三社宮を勧請して、弁天社内に祇園社を奉斎し、流行病を鎮める守護神として尊崇した。
・正徳6年(1716)に弁天社と祇園社を合祀して「淵の神社」と改称し、さらに明治3年(1870)に素鵞神社と改称し、現在に至っている。
・配神の日速彦命(桶速日神、嘆速日命)は、火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)の血から生まれた神で、灌漑用水・農耕発達を促す神として祀られ、招福・縁結び・夫婦和合の神とされる。
・中殿は昭和63年に氏子により改築された。
・例祭は5月1日。
素鵞神社(そがじんじゃ)【松前町大字大間天王】
1993/12/26、2002/9/8
・祭神:建速須佐之男命
・配神:足那豆智命(あしなずち)、手那豆智命(てなずち)
・境内神社:火防明神社(ひふせぎみょうじんしゃ)
・例祭:5月3日
・本殿は流造(ながれつくり)鉄板葺で 3.3uで、神紋は木瓜(もっこう)、崇拝者は約100戸である。江戸時代には祇園午頭天王社(ぎおんごずてんのうしゃ)と称した。
・正平年間(1346〜1370)に河野家より社領の寄進があり、その後毎年代官をさし使わせて幣帛(へいばく)を供進し、旱魃には代官を参篭(さんろう)させ祈雨祭を行い伊予郡全般に神礼を配布したといわれる。又、防火の神として崇敬された。
・明治10年(1877)素鵞神社と改称し、現在に至る。
素鵞神社(そがじんじゃ)【松前町横田】
高忍比賣神社(たかおしひめじんじゃ)【松前町徳丸】
1996/11/27, 1999/1/2
・祭神:高忍比賣神、天忍人命、天忍日女命、天忍男命、
・延喜式内社。第二次世界大戦までは郷社とされていた。
・安産守護・縁結びの神として名高い。祭神の高忍比売神は、産婆・乳母の祖神とされる。
・社宝として、興国4年(1343)の南朝の神領安堵状、正平6年(1351)の河野通景神領寄進状などが所蔵されている。
・飛鳥時代には、聖徳太子も参拝に訪れ、神号扁額を書いて奉納したという。
・安政5年(1858)に再建された拝殿には、「四季農耕図」をはじめとする絵馬額が多数奉納されている。
境内社:素鵞社
・明治時代の奉納絵馬有り。
大モガシ
・県指定天然記念物(昭和39年3月26日指定)
・えひめ自然100選
・根周り9.2m、目通り幹周4.5m、樹高26m
ホルトノキ
・かつては県指定天然記念物に指定されていたホが、1995年に指定解除。
七生稲荷大明神(しちしょういなりだいみょうじん)
・白髪の老婆になって顕現し孝行な若者の願望を叶えたという稲倉魂神(うかのみたま)を
祀る。
正岡子規句碑
「善き妻の 春の社に 詣でけり」
瀧姫神社【松前町】
1994/7/1、2002/9/22
・松前のおたたさんの祖先を祀った祠。
・松前港の堤防根もとにたっている。
松前女、賣魚婦(まさきめ、おたた)
昔、加藤嘉明が松前城から松山城に城を移して築城した際に、松前城のおたたさんに命じて頭の上に瓦を乗せて松前から松山まで運ばせたという。そのときに頭の上に乗せた櫃は御用櫃(ごろびつ)と呼んでいた。
それ以降、松前のおたたさんは頭の上に魚を入れた桶を乗せて松山の城下町まで売りに来ていた。昔は松山城の城門に入るのも自由であったというが、これは築城のおりの功績によるものだという。★詳細については「伊予の伝説:おたたさん」を参照!
おたたさんの雨乞い
・滝姫神社に祈願をして、浜でミズゴオリ(水垢離)をとる。
・21日の願あけの日、浜の海水を汲んで温泉郡川内町の雨滝さんに持っていって淵に注ぐと、龍雲が起こってたちまち雨が降るといわれている。
「珍味発祥之地」の碑
坪内寿夫翁頌徳碑
歌碑
松前町制実施記念碑
玉生八幡神社(たもうはちまんじんじゃ)【松前町西古泉】
1993/12/26、2002/4/30
・電話番号:089-985-0173
・ご利益:家内安全、商売繁盛等
・交通:伊予鉄郡中線古泉駅下車徒歩10分
主祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと)(第15代応神天皇)
配神:三女神(市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、瑞津姫命(たぎつひめのみこと))
足仲彦命(第14代仲哀天皇)
気長足姫命(神功皇后)
玉生石神仲哀天皇の9年(200)ころ、神功皇后が三韓におもむかれる時、当地を逍遥して、湧き出る清泉に戦勝を占い、布が濃紺に染まる吉兆にちなんでこの地を「濃染の里(こいぞめのさと)」と命名した。帰途、また船をとどめられ、天神の神託によって久欺美玉(くしみたま)を玉生林にまつったが、後世、郡司がここに社殿を造営して久欺美玉宮(くしみたまぐう)と称して崇拝した。
文武天皇の慶雲4年(707)6月17日、伊予の豪族小千玉興(おちのたまおき)・玉純(たまずみ)が厳島神社より三女神を勧請して久欺美玉宮に合祀し、日女宮(ひめみや)と称した。古事記・日本書紀によると、三女神は、天照大神が素戔鳴と八坂瓊の勾玉に誓ってうまれた神で、海の神となっている。海上交通が盛んで航海安全の祈願が行われたのであろう。
清和天皇の貞観元年(859)の宇佐八幡宮の神霊を勧請し
うれしくも 松の梢に 立寄りて 久しくここに 民を守らん
との御神詠により日女宮に合祀して、玉生八幡大神宮と改め、後、玉生八幡大神社と改称した。
境内神社の玉生古宮(たもうふるみや)は、誉田別命をまつるが、12世紀から16世紀にかけて約400年間、昌農内玉生にあった石清水八幡東宝塔院領荘園「玉生荘(たもうのしょう)」に勧請していた古社である。
玉生八幡は、加藤嘉明の崇敬篤く、嘉明の松前城より松山城への移転は、玉生八幡の御宣託の夢占いによるものともいわれている。
もとは、南面していたが、このころ西向きに改修されたという。
以来、産土大神として地域の尊崇がきわめて篤い。
松前町教育委員会
境内社:玉生古社
境内社:若ノ宮
境内社:稲荷神社
・瓦製の社が脇に数多く置かれており、その奥には五輪塔が2基ある。
境内社:猿田彦ノ宮/高良社
絵馬殿
・安政7年のものなど、奉納絵馬が多数掲げられている。
・松前町内の神社〜頭王神社(恵久美)、住吉神社(新立)、蛭子神社(本村)、素鵞神社(横田)、鎮守神社(永田)、素鵞神社(大溝)、素鵞神社(東古泉)、八幡神社(筒井)〜の写真も飾られている。
松前城筒井門柱礎石
松前城の城門の一つである。傍らに由緒が記された看板が建っているが、判読し辛い。
坪内壽夫顕彰碑
カラー写真が刷り込まれた副碑が顕彰碑の右側に建っている。
その写真の下には、「紺綬褒章30回受章(昭和33年9月〜)、藍綬褒章受章(昭和51年11月)、愛媛県大西町名誉町民(昭和62年7月)、愛媛県松前町名誉町民(平成2年7月)」など、坪内壽夫翁の有する勲章が記されている。
男の劇場(作詞:星野哲郎、作曲:北原じゅん、編曲:池多孝春、唄:北島三郎)の歌詞も刻まれている。
顕彰碑の左側には、以下の文を記した副碑が建っている。
日本の造船工業を語るとき誰もが
坪内壽夫翁の存在に思いを致すであろう
名門「佐世保重工業の再建に
坪内翁は身命を賭し、心血を注いだ
さらに中小船主を倒産から救うために
全資材を拠ったのである
造船業に限らず坪内翁が再建した
企業は数知れない。それは使命感と
無私、奉仕の精神にもとづいている
人々に生きることの尊さと勇気を与え
続けた坪内翁は、郷土が誇る偉人であり
偉大な事業家である。坪内壽夫翁の名は
歴史に刻まれ、永遠に語り継がれるで
あろう。 高杉 良
鎮守神社【松前町永田】
天神社【松前町南黒田】
1996/11/27, 2002/4/30
・天慶5年(942)、筑紫の大宰府天満宮より勧請したと伝えられる。
・社殿南側に続く参道脇にはソテツの巨木がある。
境内社:淡島神社
境内社:午頭天王社
境内社:稲荷神社
境内社:庚申社
八幡神社(やはたじんじゃ) 【松前町筒井】
1998/3/8
・主祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと)
・配神:瑞穂建■命(義農神)、天照神(明治維新の際合祀)、豊受媛命、建速素戔鳴命、猿田彦命、天鈿女命、豊玉彦命
・貞観年間(859〜877)創立といわれ、明治12年村社となる。
・慶長年間(1596〜1615)松前城主・加藤嘉明が、数回にわたって社殿を造営した。
・その後、享保10年(1725)に神殿が改築された。本殿は流造瓦葺、16.8u(6坪)である。
・氏子はおおよそ250戸である。
和多津見神社【松前町北川原 塩屋】
1998/3/8
・祭神:上筒男命、中筒男命、底筒男命
・文政3年(1820)、北川原村塩屋組の戒田甚平の先祖が摂津の住吉大社より勧請した。
・この辺りは元々砂丘の上に集落があり、潮水の防護を祈願して建立した。
・明治4年(1871)松山藩によって廃社されるが、明治18年には再興した。
・もとは砂丘の上にあったが、明治42年〜大正3年の耕地整理の際、現在地に移された。
・本殿は6.6uで、昭和34年(1959)に改築された。
・現在の拝殿は平成3年11月に落成したもの。
金石常夜燈
・大神宮 金毘羅/石鉄山/瑜伽山
・寛政十二年亥申五月の銘
耕地整理の碑
和多都見神社落成記念碑
![]()
![]()
愛媛県で唯一、山の存在しない町だ!![]()
雪勝桜【松前町 大智院】
なんじゃもんじゃの木【松前町 亜熱帯植物園】
・県指定天然記念物
![]()
大間の泉川【松前町大間】
2002/9/8
1大間部落を二分して流れる川が隅田川である。里人は大間川とも泉川とも呼んできた。その名の如く、泉水がこんこんと湧き出、水量が豊富で涸れることがない。
昔は、両岸に松や柳が植えられ、清流とよく調和して風光明媚、特に有明橋での納涼は岡田八景の一つになっていた。
橋涼し人幾連れの夕月夜 浮世
また、川岸には家ごとに洗い場(クミジといった)がつくられている。そこでは野菜や鍋釜の類まで洗っていた。
有明橋袂の地蔵堂は、川での災難が起らないことを願って、建立したと伝えられている。以来、堂守りを決め、丁重にお祭りしている。
盆には、地域独特の伝統火祭り行事がある。8月14,15日、日没から川に浮かべた麦藁に火がつけられ、村人総出で燃え上がる迎え火・送り火で祖霊を迎え、送るというものである。一方、有明橋上では108燈がともされる。
地域の人々は、誇りに思ってきたこの川をいつの世までも保存しようと願っている。
有明橋
・有明橋の袂には延命地蔵尊がある。
有明公園
・泉の中には鯉が放流されている。
国近川
長尾谷川
ダンダラ川
神寄川(こよりがわ)
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
福徳泉
おどろ泉
正岡子規句碑【松前町高忍比賣神社】
義農祭(4/23)
秋祭り(10/14〜15)
愛媛亜熱帯植物園(窪田椰子園)【松前町中川原】
1993/12/26
・電話番号:089-984-2033
・休園日:年中無休
・開館時間:08:00〜17:00
・窪田義直(くぼたよしなお)氏の個人経営植物園。
昭和10年頃、窪田氏が丹原町で1本の椰子の木を見つけて以来、私財を投じて約40年間集めて椰子園をつくった。
・1ha。椰子科植物 70種余り。カナリーヤシ、チャボトウジュロ、ブラジルヤシ、メタコイヤなど亜熱帯植物約56種が有る。
・昭和34年5月、椰子の模範栽培園として学術研究用並びに観光に供する目的で県指定、昭和44年22日、博物館法に規定する博物館に相当する施設として文部大臣より指定された。
なんじゃもんじゃの木
・県指定天然記念物
松前ふるさとライブラリ【松前町】
元気人村【松前町北黒田帰帆】
・電話番号 : 089-984-7771
・漢方薬草湯温泉
山王原【松前町 JR北伊予駅付近】
・昔はこの辺りを山王原と呼んでいた。
・山王様を祀った祠があり、そこにはふすまと呼ばれる魔物が住んでいたという。また、首切り馬も夜中走っていたという。
・出作、神崎、鶴吉の三地区の人が毎年旧盆12日の夜に「お念仏」を唱えると、そのようなことは無くなったという。
![]()
![]()
塩屋海水浴場【松前町】
![]()
元気人村【松前町】
![]() |
[KOMIL:KOtaro's Miscellaneous Information Laboratory]
Copyright (C) Kotaro Iseki (1996〜2002).
ご意見・ご感想はkotaro@a1.mbn.or.jpまで |