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松山市:清水地区 |
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街の木:カイヅカイブキ![]()
大字 字 中央(ちゅうおう)一丁目〜二丁目 姫原(ひめばら)一丁目〜三丁目 山越(やまごえ)一丁目〜六丁目 山越町(やまごえまち) 平和通(へいわどおり)二丁目〜四丁目 御幸(みゆき)一丁目〜二丁目 木屋町(きやちょう)三丁目〜四丁目 本町(ほんまち)六丁目〜七丁目 清水町(しみずまち)一丁目〜四丁目 緑町(みどりまち)一丁目〜二丁目 鉄砲町(てっぽうちょう) 高砂町(たかさごまち)一丁目〜四丁目
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青地林宗の墓【御幸1丁目 来迎寺】
・県指定記念物[史跡](昭和26年11月27日指定)
足立重信の墓【御幸1丁目 来迎寺】
・県指定記念物[史跡](昭和26年11月27日指定)
菊屋新助の墓【木屋町2丁目 円福寺】
・県指定記念物[史跡](昭和30年11月4日指定)
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十六日桜【御幸1丁目 天徳寺境内/桜ヶ谷 吉平屋敷跡】
・市指定天然記念物(昭和43年10月25日指定)
杉並木【御幸1丁目】
・千秋寺にあった。
・昭和48年9月14日指定解除
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一草庵【御幸1丁目455】
1999/1/17
・護国神社より西に約100m離れたところ、御幸寺山の麓御幸寺横にある。護国神社前の道を樋又川沿いに西に向いて歩くと案内板が出ている。
・托鉢の俳人として多くの自由律の名句を残した種田山頭火の終焉の地である。
・放浪の俳人、種田山頭火が、四国遍路の旅の途中の1939年12月、松山在住の友人の世話で、御幸寺境内の家を「一草庵」と名付け、翌年10月に病死するまで住み続けた。
・この庵は、当時松山高等商業学校教師だった高橋一洵が準備した。
・「一人一草の簡素で事足りる」との考えより、庵の名を付けた。
・一草庵は6畳、4.5畳の粗末な小屋で、玄関前には句碑3基、庵内には山頭火の遺品が展示公開されている。・当時の一草庵は、戦中の空襲で焼失したとされ、現在の建物は戦後に有志が同じ場所に再建したものである。
・酒を愛し、放浪の旅を続けた彼は、道後温泉にも近いこの地を選び、一草庵と名付けて余生を過ごした。
・1970年に一草庵を管理していた財団法人山頭火顕彰会が松山市に寄付した。
・1995年から、市文化協会主催で春秋の年2回無料開放している。
種田山頭火の句碑
・俳句の里 道後コース28番
・道後村めぐり 寺町コース20番『 鉄鉢の 中へも霰 』
・昭和16年3月21日建立。
『 春風の 鉢の子 一つ 』・昭和48年3月21日建立
『 濁れる水の なかれつつ澄む 』・平成2年10月建立。
『 おちついて 死ねそうな 草萌ゆる 』・平成6年(1994)10月、鉢の子会が建立。
一草忌
・一草庵には山頭火の遺品が展示されているが、通常は入室できない。
・10月10日(命日10月11日)に、山頭火を慕う鉢の子会のメンバーによって法要が催される。
白扇翁歌碑
「明け暮れを 一草庵に 鉦鳴らし 遙きし年月 かぞえるも夢」 白扇
・一草庵の入口左側に建っている。
・「本名横田英明。翁は昭和35年2月庵主として一草庵に入庵。以来、今日迄庵の管理・維持・運営に努力された。依って之を記念し、其の労をねぎらう為、此処に翁の歌碑を建立する。 昭和54年」と碑の背面に刻まれている。
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安楽寺(あんらくじ)【木屋町?】
2000/10/15
・宗派:浄土真宗本願寺派
徹心詩碑
「このままがおじひであった」
弘願寺(ぐがんじ)【御幸1丁目273】
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・電話:089-924-1677
・山号:大経山
・宗派:浄土宗
・伊予七福神
弁財天:女神。技芸・雄弁・知恵の神。「にんげんだもの」
坂村真民の詩碑
景徳寺【木屋町?】
2000/10/15
坂上毘沙門【緑町】
・松山市杉谷町(現在の緑町)に在った。
・加藤嘉明が杉谷に一宇を建立したのを、久松定行が今の坂の上に移した。
・立像は弘法大師の作である。
・直指山見性院の末寺とする。見性院は明治維新後に廃寺となり、毘沙門は本寺の法龍寺に移した。
・明治17年大和国志貴の毘沙門を勧請し再建したが、今は廃れている。
鐘馗寺(しょうきじ)【木屋町】
2000/10/15
浄福寺【御幸1丁目】
正法寺【御幸1丁目】
・山号:依報山
・御幸の辺りは以前は北京町と呼ばれていた。
・建久9年3月正宗国師の開基。
正林寺【清水町】
・元は道後村にあり照田寺と号していたが、寛永16年7月に僧侶である終玄がこの地に移した。
千秋寺[千秋禅寺](せんじゅうじ)【御幸1丁目】
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・道後村めぐり 寺町コース 21番
・山門の正面には「海南法窟(かいなんほうくつ)」の額がかけられている。
・寺伝によると、黄檗宗(禅宗の一派で、江戸時代初期に、中国の帰化僧によって開かれた宗派)の寺で、中国から招かれた僧即非を勧請開山として、江戸初期の貞亨年間(松山藩四代藩主松平定直の時代)に創建され、当時は中国風の七堂伽藍をはじめ、20を超える建物があり、「松山に過ぎたるもの」と言われたほど。代々松山藩主の厚い御加護を受け、一際異彩を放っていたという。残念ながら明治維新後、寺の領地は没収され、保護を失ったため、次第に伽藍は荒廃していった。本堂の大雄宝殿も昭和20年の松山空襲で焼失。この山門が昔の面影を止める唯一の建物となった。山門の形式は黄檗宗独特のもの。また、「海南法窟」の堂々たる時は、即非の書だという。
・山門に即非の額や山眠る 子規
・黄檗や僧今やなし千秋時 漱石
正岡子規の句碑
『 山本や 寺は黄檗 杉は秋 』
・「山本」は御幸寺山の麓、「寺」は千秋寺を表す。
『 畫(画)をかきし 僧今あらず 寺の秋 』・「僧」は周道和尚(明治17年遷化)。
・俳句の里 道後コース 29番
・昭和45年建立。2つの句を併せて記している。
・明治28年(1895)9月21日散策時の句。
・道後村めぐり 寺町コース21番
村上杏史の句碑
『 金色の 仏の世界 梅雨の燈も 』
・俳句の里 道後コース 30番
・昭和61年5月5日建立
弘田義定の句碑
『 伊佐爾波の 丘めぐる水に こだまして あかつき いで湯の 太鼓鳴りいづ 』
・俳句の里 道後コース 31番
・平成4年、愛媛アララギ会が建立。
芭蕉天神
・野中欣吉が奉賛したもの。
波多野晋平の墓
長久寺【御幸1丁目】
長建寺【御幸1丁目281】
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高橋一洵の歌碑
種田山頭火の句碑
『もりもり もりあがる 雲へあゆむ』
・俳句の里 道後コース37番
松尾芭蕉の句碑
『よくみれば 薺(なずな)花咲く かきねかな』
・道後村めぐり 寺町コース 第23番
・俳句の里 道後コース 番・貞享3,4年(1686,7)ころ江戸深川での作。薺の花は、ほとんど人目につかない田圃や道ばたなどにつつましくさくもので、その目立たない薺の花を見つけた驚きと喜びとを率直に表現している。
・この驚きの念は深い愛情があってこそ、おのずから湧きだしたものであろう。
天徳寺(てんとくじ)【御幸1丁目】
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・道後村めぐり 24番
十六日桜
・松山市指定文化財、天然記念物
・十六日桜は旧正月16日頃(2月15日頃)に開花する早咲きの山桜の変異種であり、御幸一丁目の龍穏寺、天徳寺境内、吉平屋敷跡(山越桜谷)等にあったが、これらの桜はいずれも戦災等で枯死した。現在のものは、天徳寺の実生を育てたもので花期も遅く、本来種の特質がかなり失われている。芽は赤く、花は白色、花弁は5枚有る。
・俳人 小林一茶の「西国旅日記」によると、寛政7年(1795)正月16日に桜が満開であった記述がある。
・なお古くから節会桜、辞世桜などとも言われ、伊予節にもうたわれている。真冬に桜花が見たいという病父のために孝子吉平が水ごおりをして桜に祈念したところ開花したという伝承から孝子桜とも言う。
・小泉八雲が「怪談」のなかで取り上げ、これを世界に紹介している。『うそのやうな 十六日桜 咲きにけり』 子規
・西法寺の薄墨桜、大宝寺の乳母桜とともに、名桜として有名である。
西村清臣の歌碑
『つくしけん 人のまことを にほはせて さくか む月の はつさくらばな』
・俳句の里 道後コース
・道後村めぐり 寺町コース24番
吉平邸跡の碑(桜ケ谷:天徳寺裏山)
東榮寺【御幸1丁目】
不退寺【御幸1丁目296】
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・山号:菩堤山
やくよけ延命地蔵
・弘法大師自作
不論院【高砂町3丁目】 pp.4
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・電話番号:089-925-6906
人形供養
・11月第2日曜日
・処分に困る人形の魂を抜いて火葬し、翌日その灰を人形供養塔に納める。
・人形供養は当日正午より受付。法要は13時から。
※不論院の副住職さんより御指摘があり、日時の修正を行いました。(2003/11/29)
クスノキ
・松山市保存樹木、昭和52年12月27日指定 協定番号 25号
・目通り周囲約5m、樹高約18m、樹齢約500年と言われている。
・根本が 1m余り盛り上がっており、大きな空洞ができているが、クスノキらしい見事な形をしている。★クスノキは、関東以南の暖地、特に海岸に多く自生する常緑高木で、材は特殊な香りがあって、樟脳(防虫剤)などに用いられる。
法華寺【御幸1丁目】
・山号:妙向山
御幸寺(みきじ)【御幸1丁目】
1999/1/17
・本尊:蔵王権現
★お寺なのに狛犬や常夜灯が座っているのが何とも妙な感じがする。「蜻蛉の 御幸寺見下す 日和哉」 子規 (散策集 明治28年9月20日午後)
「秋の山 御幸寺と申し 天狗住む」 子規 (散策集 明治28年9月20日)
・古き言い伝えでは、御幸寺には天狗が棲むという。
・「或云古昔帝王ノ行幸有シ故ヲ以テ御幸寺ト名ツクト、服部元喬カ撰スル所ノ温泉碑文中云諸帝行宮今御幸寺是也、全文南郭文集三編ニ載タリ」(和気郡地理図誌稿)
御幸寺山
・標高164.6m
・山頂には、修験者を祀る御幸寺の本尊がある。
・年3回、御幸寺の信者 50人前後が集まり護摩が行われる。
・御幸寺に伝わる古文書によると、御幸寺山は城の鬼門にあるため、17世紀前半に松平定行城主が、城を天災から守り、天下太平を祈ってこの山に権現の堂を建立したと記されている。
来迎寺(らいごうじ)【御幸1-525】
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・道後村めぐり 22番
・宗派:浄土宗
・山号:西宮山
・もとは河野家が道後に創建したと云われ、天台宗であったが、天文年間(1527)浄土宗に改めた。加藤嘉明が松山地割のとき、山越の一角に寺町を設け、松山城北辺の防備にしたと云われる。来迎寺もこのとき移築したものと思われる。
足立重信の墓
・県指定記念物[史跡](昭和26年11月27日指定)
・足立重信は初代の松山城主加藤嘉明の重臣として信任厚く、文武両道を兼ね揃えた武士であった。松山城築城に際しては普請奉行となり、城郭と城下町の建設に苦労を重ねた。又、重信は治水に非凡の才を発揮し、当時荒廃した伊予川(重信川)の改修に成功したばかりでなく、更に石手川の流路を南に移して、広大な農地と城下町建設の予定地を獲得することにも成功した。実に、重信によって城下町松山の素地が作られたといえる。しかし寛永2年(1626)に、未完成の城に心を残しながら、西堀端の邸で病没した。遺言により城郭が一望できる地、来迎寺の境内に葬られた。
青地林宗の墓
・県指定記念物[史跡](昭和26年11月27日指定)
・青地林宗の家は代々松山藩医であった。林宗は江戸に出て、杉田玄白について蘭学を修めたが、長崎にも遊学した。再び江戸に帰って幕府の訳官である馬場佐十郎と親交を結び、天文台の翻訳方に任ぜられた。
・文政 5年(1822)に 48歳で万国輿地誌 65巻を訳述した。
・更に文政 8年(1825)、51歳のとき気海観瀾一巻を著述し、初めて西欧の進歩した物理学を我国に紹介し、識者を驚かせた。
・その後、水戸藩に招かれたこともあったが、天保 4年(1833) 59歳を以て江戸で没し、浅草曹源寺に葬られた。
・この墓は昭和 3年(1928)に青地家に縁のある来迎寺に移された。
波多野二美句碑
『永久眠る 孝子さくらの そのほとり』
・俳句の里 道後コース34番
・道後村めぐり 寺町コース22番
卍翁(まんじおう)句碑
『城山を 池に浮かべて 夏の月』
・明治45年頃来迎寺に来遊した学僧・卍翁が、松田池(御幸1丁目)に松山城が美しく映えている風景をめでて詠んだもの。
ロシア人墓地
・松山大学(元松山商科大学)御幸グラウンドの北側にある御幸寺山西麓にロシア人墓地がある。
・松山には、日清・日露戦争および第一次世界対戦の度に捕虜収容所が設けられた。
・明治37年3月 松山は全国最初の捕虜収容所となった。捕虜は続々と送られて来て市公会堂や寺院に収容されたが、その待遇は極めて寛大で外出も自由で観劇、道後温泉入浴、海水浴まで許されていた。
・松山には4,000人を越えるロシア人将兵が捕虜として収容されていた。
・同年 6月 城北練兵場(文京町)に 25棟の病院が建てられ治療にあたったが、ワシリーボイスマン大佐ら 98名が異郷で寂しく世を去った。
・これら将兵の葬儀を行った上、山越の弁天山に埋葬されたが、後にこの地に改葬された。
・毎年、慰霊祭を行って冥福を祈っている。別にドイツ海兵とアメリカ海軍無名兵士の墓もここにある。
V.A.ボイスマンの墓
V.A.ボイスマン大佐の像
・"日露友好の架け橋 V.ムハチョーク作"
・1994年10月建立。
竜穏寺【御幸】
・「竜穏寺 禅宗 河野家五十一代越智通直出家シテ閑居ヲ営ミ梵刹トナシテ竜穏寺ト名ヶ自ラ開山トナリ 海岸希清大和尚ト称スト云、宝物ニ蜀江錦ノ袈裟有リ、通直ノ直垂ヲ以テ之ヲ作ル」(和気郡地理図誌稿)
龍仙院(りゅうせんいん)【御幸1丁目796】
おこり地蔵
・昭和20年8月6日、広島に原爆が投下され、砂に埋もれた顔だけ出した石地蔵の所に、火傷を負った女の子が座りこみ水を欲しがっていた。地蔵は、目から涙を流し飲ませたが、女の子は助からなかった。すると地蔵の顔は崩れ、胴体だけの地蔵になった。何日かたち、家族を失い顔をこわばらせた老人が、悲しんで顔に似た丸い石を乗せたところ怒っている顔に見えたため、人々は「おこり地蔵」と呼ぶようになったといわれる。
・実際は、広島で被爆した住職の義母西原ミサヲさんが新しい顔をつけて祭っていたもので、昭和45年、娘の住む龍仙院に身を寄せることになり、広島市から現在地に祭られるようになったものである。
・毎年8月6日に「おこり地蔵」を行い、原爆で亡くなった人々を供養し、戦争の恐ろしさと平和の尊さを伝えている。
龍泰寺(りゅうたいじ)【御幸1丁目】
・禅宗
物外和尚の幼き頃遊んだ手水鉢(ちょうずばち)
・物外が動かして遊んだといわれる手水鉢は舟形で、長さ約1.7m、高さ0.6m、
幅0.5mの花崗岩で、重さは約1.2トンもある。
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軽之神社(かるのじんじゃ)【姫原1丁目】
1993/10/28、2003/1/18
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軽之神社
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・俳句の里 城北コース20番
・松山市姫原の姫池の畔に祀ってある。
・允恭天皇(紀元5世紀頃、大和國遠飛鳥宮に國を治めた19代天皇)の皇太子、木梨軽太子(かるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおおいつらめのひめみこ)の兄妹を祀る。
・軽太子は同妹軽皇女と熱愛したので、まず軽皇女を伊予國に配流した。ところが太子は暴虐となったので、朝廷の軍勢の攻撃を受けて自殺するに至った。
・一説には、その後太子も伊予國に流されたとも伝えている。
・また、別の説では、木梨軽太子が伊予に配流された後に、慕いて軽大郎女が追って来たとも言われている。
・この神社の東北の山を「軽の御山」、「軽山」という。
・皇女ゆかりの地にて、この地を「姫原」という。
・村の人たちは皇女の霊を哀れんで神社を建立し、毎年 1月20日に祭礼を行っている。『笹の葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも』
(ささのはに うつやあられのたしだしに いねてむのちは ひとはかゆとも)・笹の葉を打つ霰のように激しく、確かに衣通郎女を抱いて寝ることができさえすれば、そのことで人々が離れ去っても構いはしないのに...。
比翼塚
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二つ並んだ塚の横には、古事記抄の歌碑が立っていた。・軽太子歌日(みうた)
『天(あま)飛ぶ鳥の使(つかい)ぞ鶴(たづ)が音の聞えむ時は我が名問わきね』・軽大郎女歌日
『君が行き日長くなりぬ山たずの迎えを行かむ待つには待たじ』古事記允恭段に見える歌で、允恭天皇皇子(日嗣皇子=ひつぎのみこ)の軽太子(かるのみこ、きなしのかるのみこ=木梨軽太子)が同腹の妹、衣通郎女(そとおりのいらつめ、かるのおおいらつめ=軽大郎女、身体が白く輝き、光が着物を透かすほどに美しい...)に奸けて、弟の穴穂皇子(あなほのみこ、安康天皇)により伊予の湯に流されたとき、衣通郎女が太子への恋慕に堪えかねてその後を追ったときの作歌とされる。《古事記 2-90》
「山たづ」はニワトコである。
・「姫塚 芝原ニ小石ヲ積累ネテ上ニ卒塔婆の形チシタル石ヲ二ツ並ヘタリ、相伝フ軽大娘皇女ヲ葬リタル墳墓ナリ、因テ此ヲ姫原ト云、日本書紀允恭巻曰二十四年流軽大娘皇女於伊予」(和気郡地理図誌稿)
姫池
・藻で緑色にくすんだ溜め池。
・訪れたとき、丁度一羽の白鷺が餌を噤んでいた。脳裏に、道後の白鷺伝説が浮かんだ。
御能畑
・ここ姫原にはこのように、天皇行幸の縁のある地名が残る。
軽山
・軽之神社の東北の山を軽山、軽の御山という。
古事記歌碑
軽太子の歌曰
「天飛ぶ鳥の使ぞ鶴(たづ)が音の聞えむ時は我が名問わきぬ」
軽大郎女の歌曰「君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」
古事記允恭段に見える歌で、軽太子が同腹の妹、衣通郎女(そとおりのいらつめ=軽大郎女)に奸けて伊予の湯に流されたとき、衣通郎女が太子への恋慕に耐えかねてその後を追ったときの作歌とされている。
八木米蔵歌碑
『天さかるしな乃伊予路に永久乃愛に生きたまふ二柱の神』
・昭和63年4月28日建立
愛媛縣護国神社(ごこくじんじゃ)【御幸1丁目476】
2003/6/22
・電話番号:089-925-2353
・愛媛県県社
・道後村めぐり 寺町コース19番
・交通:伊予鉄バス護国神社前下車すぐ『 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出でな 』
額田王の歌碑
・俳句の里 道後コース 27番
・道後村めぐり 寺町コース19番
・副碑に刻まれた碑文は以下の通り。
紀元1321年 今から1306年の昔 唐と組んだ新羅が百済をくだして二本に向うのを憂えられた斉明天皇は 皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)その弟君の大海人皇子(後の天武天皇)などとともに百済を助けるため 筑紫に軍を進められようとされた その途中 熟田津の石湯の行宮に泊らせられて 伊予水軍を集結し 兵船を整え 進発の時を待たれたのである
時は来た! 十五夜の月はまさに出でようとし 潮は満ちふくらんできた 軍を統率する中大兄皇子のかたわらに侍する額田王の詩情は高まってくる 天皇をようする大軍船団と 月の光と満潮とが融合して豊かにたゆたい その大生命が満ちきった一瞬 充実しきった額田王の心気は発せられた 「今はこぎ出でな!」 渾身の力をこめて しかも 優容迫らず 清明雄大 緊密なる流動の節奏と磐石の重き格調をもって歌いあげられたのである 天皇の大号令が この歌にはこもっている
古今の絶唱がここに生まれたのである
この歌は 日本女性の詩歌として世界に誇り得るものであり また日本の歴史的意義をもつものである
「今はこぎ出でな」と進発した当時の伊予水軍が 武運つたなく白村江の戦いに敗れ 困難に殉じたことをしのぶとき 哀悼の情切なるものがある しかし 潔く山桜のように散った伊予水軍の心気は ついに唐 新羅をして日本を侵させなかったのである
この歌碑を仰ぐもの よくこの大生命を感受し 雄大清明なる気象を養い 「いざ!」の充実した心気に生きられんことを附記
この歌碑は 少年たちの壱円から特別の寄付まで また県内から県外まで 数多くの人々の心からなるきょ金によってできたのである しかし すべてその名をとどめないことにして ただ「熟田津の歌を讃うる会」とし ゆかしく千載までのこることを願うのである この歌碑の字は 元暦本万葉集から採ったものである
なお この碑は熟田津の場所をここと決定して建てたものではない昭和42年7月5日 熟田津の歌を讃うる会
万葉植物園(愛媛万葉苑)
日本海軍零戦プロペラ
・拝殿に向って左側にある。立て看板には以下の説明書きがなされている。
「」
このプロペラは太平洋戦争当時最新鋭戦闘機として活躍した日本海軍の零式戦闘機に使用された可変ピッチ(恒速プロペラ)のものである。恒速プロペラは発動機の公称回転を保つように速度の変化に敏速に応じて自動的にプロペラのピッチが調節される仕組になっているもので当時においては最高水準をいくものであった。
昭和43年10月宇和島市神田川原3区加藤勉氏が西宇和海で操漁中網にかかったものを回収し当駐屯部隊に寄贈されたものである。
(平成13年9月愛媛護国神社に移転しました)
還熊八幡神社(かえりぐまはちまんじんじゃ)【御幸1丁目253】
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・電話番号:089-924-8084
・景観樹林保護地区 指定番号30号
たごり大明神【高砂3丁目】
2003/1/19
・清水3丁目バス停前
「たごり大明神縁起
たごり大明神は、江戸時代中期、当時の味酒郷即ち現在鎮座なされております処の御塚の中より御神体が現れた事に起因するものでありまして、たごりの神様として誠に霊験あらたかで、近郷、近在はもとより遠方よりの賽者あとをたたず、崇敬せられていたのであります。尚当社の縁日は古くから毎年7月14日に大祭を盛大に執行しておりました。昭和15年頃より荒廃しておりましたが、昭和35年頃北味酒町民及び崇敬者により社殿を新築して御神体を御遷座申しあげこのあらたかなるたごり大明神を永遠にお祀りすることになった次第であります。
昭和35年7月14日」![]()
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紫井戸【木屋町4丁目】
・松山七不思議
・木屋町通り東の民家敷地内にある。
・紫色の綺麗な水がたたえられていたというが、今では水が涸れてしまっている。
片目鮒【木屋町4丁目】
・松山七不思議
・木屋町通り東、民家の敷地内にある。
・昔、巡礼中の弘法大師が木屋町を通りかかったところ、ある家の前の井戸端で生きた鮒を焼いていた。これを哀れに思った大師は、事情を話して鮒を買い取った。
・鮒は既に片目が焼けただれていたが、井戸の中に放すと元気を取り戻し、井戸の中を泳ぎ始めたという。
・それ以後、この井戸には片目の鮒ばかりだったという。
・昔は、溢れるほどの水量があり、近くにある紫井戸とも水路がつながり、片目鮒が行き来していたと伝えられてている。『 鮒鱠(ふななまず) 鮒に片目の 由来あり 』 子規
七曲がり跡【木屋町?】
・加藤嘉明が松山城築城の際、北の要塞として和気浜から上陸する軍を防ぐために作ったという。
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