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松山市:和気地区 |
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街の木:松![]()
大字 字 勝岡町(かつおかちょう) 和気町(わけまち)一丁目〜二丁目 太山寺町(たいさんじちょう) 馬木町(うまきちょう)
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太山寺算額(1面)【太山寺町 太山寺】
・市指定文化財[有形民俗文化財](平成16年11月11日指定)
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円明寺(えんみょうじ)
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・四国八十八ヶ所霊場第53番札所
・所在地 :愛媛県松山市和気町1丁目182
・電話番号:089-978-1129
・山号 :須賀山
・宗派 :真言宗智山派
・本尊 :阿弥陀如来木像、脇侍立像二体(県指定文化財)
・開基 :行基菩薩・天平勝宝元年(749)、聖武天皇勅願により行基が勝岡町の辺り(和気西山の海岸)に開創した。
・文永年間、国師凝然大徳が掛錫して大宗綱要を著述したところである。
・鎌倉時代(に兵火に遭って堂宇焼けてしまったが、豪族須賀重久が江戸時代初期(1615)に現在地に復興した。
・寛永10年(1633)須賀又右衛門重久が再興、寛永13年(1636)に仁和寺の直末に加えられ、須賀山正智院円明寺となった。[?]須賀重久が円明寺を再建したのは、1615年と1633年のどちらが正解か?円明寺前にある松山市が立てた看板によれば、「元和年間以前」と非常に含みをもった表現になっている。円明寺の本堂前の立て看板には1633年とある。
円明寺厨子(1基)
・県指定有形文化財[建造物](昭和31年11月3日指定)
・本尊阿弥陀如来を安置する厨子は、桁行1.07m、梁間83.3cm、屋根は板葺、唐様出組、柱は円柱礎盤付となっており、正面は桟唐戸両開き極彩色である。屋根に雲華の飾りがある宮殿造り。
・製作年代は不明確であるが、八脚門とともに、室町時代の遺構を多分に持つ。
円明寺八脚門(1棟)
・県指定有形文化財[建造物](昭和31年11月3日指定)
・三間一戸建て、屋根入母屋造り本瓦葺の単層の建造物で、表正面の柱間は4.9m、側面3.0mで創建当時のものとは若干の変容が推定される。
木造阿弥陀三尊像のうち両脇侍立像(2躯)
・県指定有形文化財[彫刻]
・行基菩薩作で、鎌倉時代の建長2年(1281)7月のものといわれる。
銅板納札
・市指定文化財
・米国シカゴ大学教授のスタール博士が発見したことで有名。
・四国で一番古い銅板の納め札であり、慶安3年(1650)江戸時代初期に作製された。
木造彫刻の龍
・江戸時代初期、左甚五郎が彫ったものである。
観音堂
・観音堂に安置してある十一面観音像は、慶長5年に河野家再興を計った遺臣達が、戦死者の菩提を弔うために奉納したといわれる。
松根東洋城の句碑
『鶴飛久(ひく)や 丹頂雲を やぶりつつ』
・俳句の里城北コース 13番
・句は大正9年頃の作。昭和初期、母校の松山中学より明教館に展示するため依頼されて作った句。
・東洋城は松山中学で夏目漱石に英語と俳句を学んだ。
・明治11年(1878)に東京で生まれ、昭和35年(1960)に東京に没した。
・父は宇和島藩の城代家老であった。
キリシタン灯篭
・八脚門をくぐると西の塀際に、マリア像を刻んだキリシタン灯篭がひっそりと立っている。
・この灯篭は寛永年間(江戸時代初期)に造られたといわれており、御影石で高さ約50cmで十字架を型どっている。
・正面に彫られたマリア像は観音像に似せられている。また十字架を型どった灯篭も十字架の左右を極端に短くし、火袋を乗せるとまったく判らないように造られている。これは弾圧を受けた隠れキリシタンたちが、遍路の姿を借りて、密かに拝むために工夫したものである。
・円明寺が格式の高い寺であり、取締の目が届かないことからこの寺に造られたのではないかと推測される。
太山寺(たいさんじ)【太山寺町1730 】
2004/2/22
・四国八十八ヶ所霊場第52番札所
・電話番号:089-978-0329
・山号 :龍雲山
・院号 :護持院
・宗派 :新義真言宗智山派
・本尊 :十一面観世音菩薩 (行基作)
・開基 :真野長者
・交通 :伊予鉄バス太山寺前下車すぐ
・伊予十三仏霊場 第3番札所:文殊菩薩
・天平11年(739)聖武天皇の勅願により行基開基といわれ、帝御自ら金光明最勝経の写経を山の頂に埋められたという伝えがあり、経ガ森と呼ばれている。
・豊後の真野長者が山頂の光に導かれて開基したという伝説もある。
・経ヶ森山頂(標高171.8m)には観音像がある。
・山頂からの伊予灘の眺めは格別である。
大日如来
仏足石
・釈迦の御足を象ったもの。
お釈迦さまのおみ足です。お釈迦さまお涅槃の後、佛像が作り始められるまでの約600年間の長い間、お弟子さまや多くの人々によって在世中のお釈迦さまや多くの人々によって在世中のお釈迦さまのおみ足跡を写しとって、お釈迦さまご自身と思って礼拝したものです。それは唐の時代インドから中国へそして遣唐使によって日本に伝えられました。今ここに仏足石を前にして心静かに念ずれば、お釈迦さまはすべての人々に心のよりどころを示し心の安らぎをもたらし、苦しみや悲しみそして悩みを解きほぐして歓びを与えてくださいます。転福至福、諸願成就、み仏の慈悲をこの身いっぱいいただきましょう。合掌南無大恩教主 釈迦牟尼如来
(松山市 松山市教育委員会 境内解説文)
太山寺本堂(1棟)
・国指定有形文化財[国宝](昭和31年6月28日指定)
・代表的鎌倉建築で落ちついた風格を持っている。
・嘉元3年(1305)に建立された。
・桁行七間・梁九間、柱・梁などの木組みは大きく、入母屋作本瓦葺の豪放雄大な県下最大の建物である。
・力強い正面の八本の柱、美しい屋根の勾配、当時の名工の作と言われる
・かえる股の優美な曲線など、見るべきところが多い。
・和様を基本としながら、天竺・唐様を取り入れた折衷様の優れた表現力と、辺りの閑静な雰囲気が古へと誘う。
国宝(昭和31年6月28日指定)
第52番札所太山寺(所在地;愛媛県松山市太山寺1730)
四国88か所52番の札所、天平11年(739)聖武天皇の勅願により行基開基という。帝御自ら金光明経と法華経の写経を山の頂に埋められたという伝えがあり今も経が森とよんでいる。寺伝には豊後の真野長者が海難にあい、観音様の霊徳を受けてその難をのがれたので本堂を再建したとある。昭和27年より3年間の解体修理の際、本堂の内陣正面の蟇股の墨書銘、嘉元3年(1305)が発見され、それにより鎌倉期の秀作であることがわかる。桁行7年、梁間9間、入母屋造り本瓦葺で県下最大の建物である。
(松山市 松山市教育委員会 境内解説文)
一ノ門
京堂坊跡
荒神様
二ノ門(1棟)
・重要文化財
・仁王門
光津庵(こうしんあん)
本坊
三ノ門
・楼門
太山寺二王門(1棟)
・国指定重要文化財[建造物](明治37年8月29日指定)
木造十一面観音立像(6躯)
・国指定重要文化財[彫刻]
木造十一面観音立像(本堂安置、1躯)
・国指定重要文化財[彫刻]
・本堂須弥壇(しゅみだん)に安置されている。聖武天皇以降歴代天皇勅納といわれる。
一畑薬師堂
聖徳堂
・「入試合格祈願」の白い幟が多数立ち並んでいる。
太山寺の鐘
・県指定文化財
・永徳3年(1383)作。
梵鐘(1口)【松山市太山寺町 太山寺】
・県指定有形文化財[工芸品]
絹本著色弘法大師像(1幅)
・県指定有形文化財[絵画]
正岡子規句碑
『蒟蒻に つつじの名あれ 太山寺』
・俳句の里城北コース11番
・太山寺参道左側
・「寒山落木」明治25年春、植物の部に「伊豫太山寺」と前書きしてこの句がある。かつて蒟蒻は太山寺の名物であって、それを太山寺蒟蒻といって松山辺りの人々は特に賞玩していた。
・そのまた太山寺には躑躅の花が見事であったので、子規は戯れてこう詠んだのであろう。(松山名所12カ月の句)
・昭和48年に建立。
松尾芭蕉句碑
『八九間 空へ雨ふる 柳かな』
・俳句の里城北コース12番
蕉門老人竹翁句碑
『十月の 中の二日や 柳つか』
松根東洋城句碑
『春雨や 王朝の詩タ 今昔』
・俳句の里城北コース10番→12番
徳永山冬子句碑
『月の虫 月の照らざる 側も虫』
・平成元年4月「渋柿」誌900号を記念し、松山渋柿会が建立した。
小原方外詩碑
『法燈未絶太山寺.....』
「法燈いまだ絶えず太山寺....」・太山寺仁王門から約100m入った参道沿いに建てられている。
・本体の隣には、漢詩を読み下した副碑が設けられている。
・1995年4月建立。
・小原方外が昭和30年頃に詠んだ漢詩。
村上杏史句碑
『道ゆづる 人を迎えて 秋遍路』
布袋家のねじれ竹
・ダイサンチク 25本が一束になってねじれ合っている。
・高さ 8m。☆弘法大師の霊験談
「昔、筑紫より男女二人がこの地にやってきた。この宿に泊まった折、一人の遍路僧が泊まり合わせた。二人はあわてて庭の角に置いた杖を取りに行ったが、不思議にも途中から持ってきた青竹の杖はねじれあった。二人は面目無いことではあるが、主人の目を盗み不義いたづら者であることを話した。「それではこれからは分かれて行け」と言われ、二人は別々に巡拝することを誓った。僧はこの杖を後世の戒めのため庭に挿して、「大師のお許しがあれば根つき枝葉が生じて栄えん」と言われた。それ故、四国遍路は青竹の金剛杖は用いない。」「」(ふるさと和気)
ひきさき地蔵
・三の門の階段上り口右側にある地蔵。
「」(ふるさと和気)
「」(ふるさとのおはなし、松山市連合婦人会)
子育地蔵
大日堂
大師修行像
子安観音
子育観音
砂防ダム
・昭和55年完成。
力くらべの亀の石
「どのくらい遠くまで運べるかを競った大・中・小の石で120kgの中石」
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勝岡八幡神社(かつおかはちまんじんじゃ)【勝岡町2592】
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・電話番号:089-978-1123
・愛媛県免許センター近く
・交通:伊予鉄バス勝岡神社前下車徒歩5分
・ご利益:学問・家内安全
・5のつく日には学業成就祈願祭を行う。
・孝霊天皇の孫にあたる小千命が国造として在任中、白人城(うらどじょう)において賊を平定した。
・この勝ち戦にあやかり、勝岡と呼ぶようになった。
・命は宇佐八幡とともに勝岡神社に祭られたが、町名が神社名と同じでは恐れ多いということで、この地方を「片岡(かとか)」、坂浪と呼んでいたが、昭和15年に松山市に合併し、17年からは町名変更によって再び勝岡町に戻った。
一体走り
・10月7日 秋祭にて行われる行事。
・市指定無形文化財
・昔、和気浜沖に停泊する朝廷の御用船に産物を納めるため、神輿で遠浅の浜に渡った古事にならって始めたと言われる。
・日の出の頃に宮出しが行われ、ジャンジャンという鈴の音とともに「セイヤッ、セイヤッ」のかけ声と共に約100mの参道を駆け抜ける姿は勇壮である。
・宮入りする前に、和霊橋(安城寺町)の上で褌(ふんどし)姿で神輿をかき、桶で水をかける「川狩り」もある。
佐古岡神社(さこおかじんじゃ)【馬木町141】
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・景観樹林保護地区 指定番号28号
素鵞神社【太山寺町】
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「」(ふるさと和気)
中野山若宮神社【太山寺町 小山】
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「」(ふるさと和気)![]()
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首切れ地蔵【太山寺町】
「むかしの道の太山寺よりのところに、首の切れたお地蔵さまが五体あります。また自然石でできたへんろ墓も二体あり、大きいものに『天保十年五月■■■■遠至信上 遠江国城東郡横須賀六右衛門』と刻まれています。行きだおれになったおへんろさんを、太山寺の人たちが手あつくとむらったしるしでしょう。不思議なことに、ここにお地蔵さまをいくつ置いても、いつのまにか首が切れるそうです。」(ふるさと和気)
ミニ西国三十三霊場【高浜町〜太山寺町】
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( 1).青岸渡寺 ( 2).紀三井寺 ( 3).粉河寺 ( 4).槙尾寺 ( 5).葛井寺 ( 6).壺阪寺 ( 7).岡寺 ( 8).長谷寺 ( 9).南円堂 (10).三室戸寺 (11).上醍醐寺 (12).岩間寺 (13).石山寺 (14).三井寺 (15).観音寺 (16).清水寺 (17).六波羅密寺 (18).六角堂 (19).革堂 (20).善峰寺 (21).穴太寺 (22).総持寺 (23).勝尾寺 (24).中山寺 (25).清水寺 (26).一乗寺 (27).円教寺 (28).成相寺 (29).松尾寺 (30). (31). (32).観音正寺 (33).
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太山寺川【太山寺町】
・太山寺の一の門の脇を流れる。
「」(ふるさと和気)
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・素鵞神社の東側。
「」(ふるさと和気)
「」(ふるさと和気)
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真野長者(一夜建立伝説)【太山寺町】
豊後の国の真野長者は広大な土地と沢山の金を持ち何不自由なく暮らしていたが、ある年、京の都へ行く途中に、一人娘の般若姫が周防の海で嵐にあい船が沈没して死んでしまった。
周防にて娘の弔いも終わり、都へ再出発し、船が備後の鞆の津(とものつ)に差し掛かったところで嵐に見舞われた。帆柱は折れ、舵も流され荒波に吸い込まれそうになったが、長者は一心不乱に観音に拝み続けた。すると不思議なことに、遥か彼方の瀧雲山(りゅううんさん=太山寺山)の頂上辺りが五色の美しい雲となって光輝き、船を導き、長者は高浜に漂着した。それから豊後に帰った長者は、命を助けてもらった御礼にと寺の建立を思い立った。船いっぱいに木材を積み出発し、高浜に着き、明日は寺の建立場所を探そうとその晩ぐっすりと眠った。目覚めてみると船に積んだ木材が一本も無くなっており、あちこちを探し回った後、瀧雲山の頂上まで行って見ると驚く事に大きな寺が出来上がっており、長者が持ってきた木材が使われていた。★京に上る長者が娘を無くし、途中に寺、神社を創るという話は
・谷上山(伊予市)
などにも見られる。
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