埼玉縣立川越高校野球部
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栄光の甲子園


昭和6年2月14日
埼玉県立川越中学校の、第8回全国選抜中等学校野球大会への初出場が決定した。

明治31年4月15日、埼玉県第三尋常中学校として設立が認可。明治32年4月1日川越城址に開校。そして5月28日、樺山資紀文部大臣が臨場して開校式が挙行された。さらに明治34年、校名を川越中学校と改称。

それから時は流れ、ついに川越中学校の甲子園出場が決まった。部長の飯田先生が春の甲子園選抜大会に向けて資料を提出したところ、成績が評価されて川中が推薦された。埼玉からは初めての出場であった。監督は立教大学選手であった岸田勝太郎(中学25回)、そして早稲田大学の森、多勢投手や、元大毎の林(旧姓井川)捕手のコーチ、さらには学生野球の大御所飛田穂洲氏の指導を受けて猛練習し甲子園に臨んだ。出発前には3回も雪が降ったが、全校生徒を動員しての雪かきでなんとか乗り切った。

そしていよいよ甲子園に到着。4月1日、選抜大会開会式。当時の中学野球界は西高東低の状況が続き、関東・東北は野球不振の状態であった。その先端を切って川中が選抜の栄誉をになったので、さらには一番遠距離からの参加校であるとの意味合いも含め、選手宣誓を川中野球部野本主将が行った。

【飯田先生と川中野球部選手】〜ホームページの綿貫選手のコーナーも参照


川中の相手は同じく初出場の中京商業であった。川中は攻守の大黒柱熊谷投手と綿貫一塁手を中心に戦った。


川越中学 0− 11 中京商業

しかし、マンモス甲子園という魔物に魅入られてしまい、二死からの高い内野フライでの失策が目立ち、川中は大敗を喫した。
この年、日本は満州事変から戦時色が濃くなり、野球統制令も出されることとなった。

敗戦から時代は戦後へ。昭和23年4月1日、学校教育法により埼玉県立川越高校となり新たなスタートが切られることになった。川中から川高へ。この川高グランドには、多くの若者が野球をやりに集っていた。

時は流れ昭和33年秋、新チーム結成と同時に家村監督が就任し、技術・精神両面からエース吉田を中心としたチームが作り上げられた。平均身長162cm、小粒ながらも横田主将を中心に万全のチームワークを誇るピリッとしたチームができあがった。昭和34年、いよいよ夏の大会。川越高校の怒涛の快進撃が始まる。
2回戦 川越 10 春日部
3回戦 川越 大宮工 〜吉田投手ノーヒットノーランを達成 
準々決勝 川越 川越商
準決勝 川越 川越工
決勝 川越 鴻巣
吉田投手は5試合に完投、連続43イニング無失点、奪三振46個の大会新記録を作った。
第一シード校であったが攻撃力にはやや欠けており、これを補ったのは確実な守備とチームワーク、そして吉田の力投が優勝の原動力であった。

西関東代表決定戦:
川越 2− 1 甲府工
横田主将の腰痛をおしての逆転打で遂に川越高校の甲子園出場が決定した。
喜びにわく川越高校、創立60周年に花を添えるものであった。
【栄光の甲子園での川越高校ナイン】〜左側の円が家村監督


あの大球場にマーチが鳴り響き、感激の入場行進。


初戦の相手は鎮西高校であった。この日の甲子園は久しぶりに朝からカラッとした青空。八時半プレーボールにもかかわらず、早くもスタンドには一万人以上の観衆が詰め掛けていた。川高ナインは、チーム育ての親・故飯田先生の写真をもって三塁側ダックアウトに陣取った。

1回戦:
川越 3− 1鎮西
開始早々、トップバッター牛若丸内沼がいきなりの三塁打で一気に流れをつかみ、川越高校は勝利した。
【伝統の校歌】

”紫匂う武蔵野の 天与も深き 川越に…”
          見事な校歌が甲子園じゅうに響き渡った。

して2回線、相手は強豪の高知商業であった。

2回戦:
川越 0−1高知商
吉田投手は見事に高知商打線を封じていたが、しかし9回裏、高知商は機動力で見事に1点をとり勝利をおさめたのであった。甲子園に二度目の川越高校校歌が流れることなく、川高の夏は終わった。しかしこの年の川高の快進撃は、川高ファンの心に刻まれることとなった。


それから時は流れ、
時代は21世紀。川越高校は100歳を過ぎた…。

【川高のホームグランド、川越初雁球場での応援風景】


母なるくすの木に見守られた川越高校グランドには、毎年若者が野球をやりに集まってくる。共に汗を流しにやってくる。過去から現在、そして未来へ、川高グランドには球友の汗が、しみ込んでいる。



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