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Archive <2004>


22 November. 2004

 最近、ウェブログ(weblog)、通称ブログ(blog)が流行っているようですね。白状してしまえばこのウェブログ(weblog)=通称ブログ(blog)がどういうものなのか、正確にはわかっていないのですが、どうやら既成のテンプレートを使って簡単に個人の日記などを記したサイトが作れるらしい、というのが私の理解(違っていたらご指摘を!)。最近「自分のホームページ作ったよ!」という場合は大方がこの「ブログ」らしいのだな。Internetが一般化しだして10年になろうとしているいま、そんなこんなで個人でWebsiteを持つ人が増え始めているらしい。つい1ヵ月前までPCを触ったことのなかった人が、今日、自分のブログを立ち上げるなんてことがあるわけで、まぁ、9年前に直接HTMLを書いてWebsiteを立ち上げた私としては隔世の感があるのですぁ。

 HTMLをシコシコ書いたものであれエディターを使ったものであれ、出来合いのテンプレートを使ったブログであれ、作った以上はより多くの人に見てもらいたいというのが人情というもの。だがしかし、自分のWebsiteを作ったからと言って、赤の他人はおいそれと見てくれるわけではないのです。

 個人の日記のようなWebsiteを1日当たりいったい何人の人が見に来るのか。まあ、大方は限りなくゼロに近い1桁の数字でしょうね。かくいう私のこのページにしたところで1日当たりのアクセスは10-20というところ。これでも平均を上回っているのではないかと思いますけどね。BBSを持つWebsiteは一般的にはそれなりのアクセスがあるようですが、一方通行のWebsiteの場合にはオーナーが有名人でもない限り1日のアクセス数は1桁というところが多いのではないかと(勝手に)想像しているわけです。

 そんな中で、郷秋<Gauche>が作るいくつかのWebsiteの中の一つ、CRL Links がこの2日間、アクセス数が急上昇しているのです。「CRL Links」はカナダのBombardier社が製造する、ビジネス・ジェットのようにスマートな小型のジェット旅客機CRJの関連サイトだけを集めた、小さなそして実にマイナーなリンク集なのです。普段のアクセス数は1日当たり10-15というのが平均的なところなのですが、昨日が53、今日に至っては70と、平均の5〜7倍のアクセス!

 何故かと言えば、11月21日に中国東方航空のCRJ200が内モンゴル自治区で小型機墜落し53人が死亡するという痛ましい事故があったからのです。TV、新聞あるいはネット上のニュースでCRJの墜落が知らされると、Yahoo!を初めとした各種の検索サイトで「CRJ」をキーワードとした検索が行われ、その結果ヒットした「CRL Links」のアクセスが急に多くなるわけです。

 同じようなことがやはり私が作成している、スペインのチェリストにして作曲家、ガスパール・カサドの情報を集めた Gaspar Cassado でも起きたことがあります。
 それはカサドの妻でもあった日本最初の国際的ピアニスト、原智恵子逝去の時、そしてカサドの遺品−つまり原智恵子の遺品−の中からJ.S.Bachの「結婚カンタータ」BWV.216のオリジナルのパート譜発見された時、最近では智恵子のピアノ独奏とカサドと共演したブラームスのチェロソナタ第2番を納めたCDが発売になった時です。

 つまりだ、気になる言葉がTV、新聞あるいはネット上登場するとそれをキーワードとして、多くの人が検索するということなのです。Internetが今的に正しく使われているわけですなぁ。実に正しい使い方!

 そんな使い方をされる皆さんの期待に応えるために、「CRL Links」では緊急特集として中国東方航空のCRJ墜落のニュースを集めたコーナーを作成したことは言うまでもありません。こんな形で情報を得たい方のお役に立てるのは、まさにWebaster冥利に尽きるというものですね。

crj_banner_s.jpg (17955 バイト)  CRJ Links

gcbanner_s.JPG (5190 バイト)   Gaspar Cassado


3 November. 2004

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花水木(ハナミズキ)

 郷秋<Gauche>の住む横浜でも日に日に秋の気配が濃くなってきていますが、それでも街路樹の公孫樹や欅がようやく黄色くなり始めたところで、本格的な紅葉・黄葉までにはもう2、3週間のまがありそうです。

 そんななかで、1週間ほど前から我が家の花水木(ハナミズキ)真っ赤に色づいています。門柱の両側にピンクと白の花をつける木を1本ずつ植えたのですが、なぜかピンクの方が樹勢が良く花も沢山つけ、紅葉も見事なのです。上の写真はそのピンクの花を付けるほうの木の写真です。

 花水木にはアメリカハナミズキなんて呼び方もあるようですが、どうやら亜米利加山法師(アメリカヤマボウシ)というのが正式な名前のようです。明治45年に日本からアメリカのワシントン州に贈られた桜の苗木のお礼にと亜米利加山法師が送られたてきたとか。もともと日本に自生する山法師の花に似ていることからこの名前が付けられたようです。

 いまでは街路樹や公園の植栽、庭木としてして使われることも多く、すっかり馴染みの樹木となっていますね。公園等に植えられる樹木の中ではいち早く紅葉し、春の花の時期だけではなくこの時期にも私たちの目を楽しませてくれます。


24 Octoberber. 2004 (10/25・11/1追記)樹著 『アフターダーク』を読んで 郷秋<Gauche>的書評

 昨日の新潟県中越地震では、震源地付近を中心に大きな被害が出たのは既にご存知の通りだが、郷秋<Gauche>としてはここで交通、とりわけ他の地域、特に首都圏との往来の問題に注目してみたい。

 勿論、私とて新潟と他地域とを結ぶ交通路がどのような状況なのか仔細に把握しているわけではないが、関越自動車道そして上越新幹線という首都圏と新潟とを結ぶ大動脈が共にストップしているのだから、首都圏から新潟に入るためには一般国道及びJR在来線を使わなければならない状況であることはすぐに理解できる。そのJR上越線水上〜長岡駅間の上下線で運転を見合わせておる、一般国道も、おそらくは各所で被害を受け、また通行の制限を受けて通常通りの往来が困難であろうことは、阪神・淡路震災時の経験(知識)から容易に想像できる。今のところ、首都圏から新潟(とは言っても新潟市のことだが)に入るルートとしては福島県の郡山から磐越自動車道もしくはJR磐越西線を使うのが最良のようである。そして、もうひとつのルートが空路である。

 セブン−イレブンは被災者支援(無料配布)のためのお握り6,000個と、新潟県内の店舗で販売する11,000個について、ヘリコプターを使って、東京都内から小千谷小学校(臨時のヘリポートになっているのだろう)、新潟空港などへのピストン輸送を始めたという。当然、相当の経費負担となるわけだが大手流通産業としての社会的責任において決めたことであろう。

 また、ANAとJALは羽田空港から新潟空港に今日から臨時便を飛ばし始めている。今回の地震は東京と新潟を結ぶ交通の要所となる小千谷市、十日町市、長岡市を中心に大きな被害を出したものだが、幸いにして新潟市の海側に位置する新潟空港への被害がなかったのであろう。陸路が遮断もしくは通行の制限をされても、空路については飛行場施設に被害がなければ当然通常通りの利用が可能なのである。また、ヘリコプターに至っては、校庭など一定以上の広さの場所が確保できればいつでも利用が可能となる。

 さて、ANAとJALが運行する羽田-新潟の臨時便であるが、ご存知の方も多いだろうが、実は現在、羽田-新潟の定期便はないのである。上越新幹線開業以前には勿論定期便が飛んでいたわけであるが、東京-新潟を2時間で結ぶ新幹線が開業しては、新潟空港が新潟市中心部からバスで僅か25分と、国内の空港としてはいかに好立地内であるとしても太刀打ちはできずに、廃止となって久しいのである。そんな羽田-新潟に時ならずして臨時便が飛ぶことになったわけである。

 試しにJALのWebsiteからこの臨時便の運行状況を調べてみたところ、明日予定の2便はすべて満席である。機材は298席のA300。ANAはと言えば、Websiteからの予約は明朝からとのアナウンスであるが、おそらくは今時点で満席であろう。なぜなら、JALが298席のA300を飛ばすのに対してANAの2便は166席なのだという。ANAの機材で166席のものを探してみると、果たしてクループ会社であるANKのA320であることがわかる。

 ANAとしてもそれなりの事情があっての機材選択ではあろうが、便数を増やすなりA300並みの座席数(288席)を持つ767-300を飛ばすなどの対応が望まれるところではある。
 通常時にはない羽田-新潟便が運行されるとなると、熱心な航空ファンは「乗ってみたい!」と思うところであろうが、ここは本当に必要な被災者のご家族や救援関係者のために是非とも我慢いただきたいものである。

10/25追記 私が書いたからと言うわけでは(勿論)ないだろうが、26日のANAの運行予定を見ると6便が予定されている。内2便が昨日私が指摘した767-300、そしてさらに大きな747SRが1便そして残りの3便が737-400で、合計(最大)1,622席ある。対するJALはA300を2便そしてMD-87で1便、計3便、730席と、ANAが便数席数共にJALを上回る運行を予定しているようである。

11/1追記 依然として上越新幹線の全線運転再開のめどが立たない中、ANA、JALともに11月末までの羽田-新潟便、毎日4往復の運行を決めたようです。ANAはA320(一部A321)を、JALはA300(一部MD87)と、共にエアバス社の機材を中心とした運行が予定されています。とりあえず11月末までの運行とされてはいますが、上越新幹線の全線運転再開まで運行されるものと思われます。


20 September. 2004  村上春樹著 『アフターダーク』を読んで 郷秋<Gauche>的書評

 村上春樹の最新作、『アフターダーク』を読んだ。作家デビュー25周年記念の書下ろしなのだという。書棚に並んでいる『風の歌を聴け』を取り出して奥付けを見ると、確かに第一刷発行が1979年7月25日(私の書架にあったものは1988年の第二六刷。初めて読んだのは、刊行後すぐであった記憶があるが)になっている。発行所も同じく講談社である。

 村上は『風の歌を聴け』でのデビュー以降、『羊をめぐる冒険』(1983年)、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』(1985年)と質の高い作品を発表し、1987年の『ノルウェイの森』で一躍ベストセラー作家に躍り出た。その後も『羊をめぐる冒険』の続編とも言える『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)、『ねじまき鳥クロニクル』全三巻(1994-95年)を発表、最近では『海辺のカフカ』(2002年)でその健在ぶりを知らせてくれていただけに、作家デビュー25周年記念の書下ろしへの期待は弥が上にも高まろうと言うものであるのだが・・・。

 この物語は「空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して」とらえられ、「私たち」が見たものとして語られる。まずは、夜、空高く飛ぶ鳥がいるのかどうか疑問である。夜行性の鳥類がいることを知ってはいるが、果たしてそういった鳥類が高く舞い上がり夜の街を見ることが出来るものなのか。まあ、これはひとつの「比喩」として考えるべきことなのかも知れないが。問題は「私たちはその光景を上空からとらえている」である。「私たち」っていったい誰のことだ?どう考えても、語り手としての作者と読者である「私」のことである。

 気がついてみれば、いつのまにか読者である「私」の視点が語り手である作者の視点と同化してしまうことがある。うまい作者の良い作品がそうである。だれの視点で語られているのかなどということを意識もさせないのだ。名作と呼ばれる作品の多くがそうである。しかしだ、『アフターダーク』において、村上は読者に語り手と同じ視点を持つことを、まず強要する。それもまったく直接的な表現で、書き出しから僅か二行目においてである。この物語の目撃者つまり語り手に、読者である「私」を引きずり込むことによりこの物語に対する読者の共感を得たかったのかも知れないが、彼ほどの作家にして、そのテクニックはいかにも稚拙であり、とても共感を得ることは出来ない。

 あるいは『風の歌を聴け』以降の25年間に書かれたものから離れ、まったく新しいスタイルで書いてみたかったのかもしれないという善意の解釈も成り立ちえる。
 しかし、「そうかもしれない」(p.148)と言う高橋も「でも今日はだめなんだ。きれいな下着をつけていないから」というと「疲れるから、そういう意味のない冗談はやめてくれない」とマリに言われてしまう(p.214)高橋も、紛れもなく多くの村上作品中の「僕」であることは間違いないし―もっとも「僕」であるはずの高橋が仲間とバンドで演奏すると言う他者との共同作業に自ら取り組むあたりを読むと、村上春樹的「僕」はいったいいつ宗旨替えしたのかと思わざるを得ないのではあるが―、デニーズの店内はどこをとっても「交換可能な匿名的事物によって成立している」(p.4)などという奇をてらったとしか言いようのない比喩が、けれども前後の文脈の中にまるで72年前からそこにあったかのようにしっくりと収まっていることからも、この作品が村上の書いたものであることがいとも簡単に見破られてしまう。

 さらにはテレビの画面に映し出される、エリが寝ている広い窓もない倉庫のような部屋が、『ダンス・ダンス・ダンス』におけるホノルルのダウンタウンの、六体の人骨がならんでTVを眺め続けていた(ここでも「テレビ」だ!)「死の部屋」と実は同一であることに、村上の熱心な読者であればすぐに思い至るであろうし、テレビの向こうとこちらとをエリが行き来するトリックは、本作の中心となる物語とその部分を同化させることが出来ずに、異質な二つのものが同時に目の前に存在する居心地の悪さを読者に与えるばかりである。まったく別のものとして始まった二つの物語が次第に引き合い、近づき、溶け合うと言う見事な終末を迎えた『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の成功とは程遠いものであると言わざるを得ない。

 もし、村上にこれまでと違った作品を書きたいという思いがあったのだとすれば、その目論見は見事に失敗している。もし村上に、楽をして儲けたいという目論見があったとすれば、おそらくはそれの目標の何割かは達成するだろうが、この次の作品で印税収入の目標を達成できるかどうかは怪しいと、私は言っておきたい。

 さて、『アフターダーク』における「問題」は編集者にもある。デビュー25周年記念の作品であれば、多くの読者が相当に期待をするわけであるが、その期待に応え得る作品を世に送りだすことが出来なかった責任は、当然編集者にもある。私は、村上はこの作品を書きたかったのではないのではないかと考えている。つまり、デビュー25周年記念であるからと、仕方なく書かされたのではないかと。出発点がそうだあったとすればそのあとの事は押して知るべし。出版社および編集者に、村上春樹の最新作なら「売れないわけがない」との驕りがあったのであろう。

 例えば、「コンパ帰りらしい大学生のグループ」(p.4)。身近にいる大学生に聞いてみて欲しい。「コンパって何?」と。今時の大学生はコンパなどという言葉を使わない、と言うよりは知らない。コンパは勿論のこと「合コン」が「合同コンパ」の省略形、つまり合コンの「コン」がコンパの「コン」であることも知らないのである。もし、村上がそう書いたのであれば、若い世代、つまり中学生から大学生に至る年齢の者たちの気持ちの代弁者であったはずの、そしてそれらの年齢の者から支持されていたはずの村上が、もはや代弁者とはなり得ず、支持も得られないと言わざるを得ない。村上は既に若くはなく、「今の」大学生や高校生の世代の気持ちを代弁することは出来ないのである。編集者もそのことに気がつかず、今の大学生が使いもしない言葉があったにも関わらず(高橋が使ったわけではないが、少なくとも大学生に読んでもらいたいと思うのであれば)指摘をしなかったのは、彼の怠慢と言えよう。もはや、村上作品の愛読者は村上と同世代か、少なくとも「コンパ」という言葉を知っている世代だけになってしまったのかも知れない。

 四半世紀も書き続けていれば、良い作品もそうではない作品も生まれる。既にそのポジションを固めた作者であれば、たとえその作品に本人が満足しあるいは自信を持てる作品であるかどうかとは関係なく、出版社の都合により出版せざるを得ないということもまま起こり得るのだろう。作者は創造者ではなく出版社あるいは印刷所と言った大きな歯車の「噛み合わされている」ひとつの小さな歯車、原材料の「生産者」でしかないなのであるから。

 誤解されることは本意ではないので最後に言っておこう。多くの苦言を呈したが、私は『アフターダーク』が次のまったく新しい作品への序章である可能性を否定はしないし、むしろそうであることを願っている。これまで慣れ親しんだ「村上ワールド」とは別の、まったく新しい「村上ワールド」が出現するのであれば、村上作品の愛好者としてこれほど嬉しいことはないのだから。

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村上春樹著 アフターダーク
講談社 2004年9月7日第一刷発行 本体1,400円

前作 『海辺のカフカ』の郷秋<Gauche>的書評はこちらです。


13 September. 2004

 久しぶりの独り言となったが、今日は本の紹介である。
 ポール・フレール著「はしる まがる とまる」(2004年8月26日初版 二玄社 本体1,200円)
 ポール・フレール(1917年生まれ。以下、敬愛の念を込めてPF先生)は世界で最も著名かつ信頼されているモーター・ジャーナリストである。PF先生は1955-56年にはフェラーリF1チームのドライバーを務め、1960年には「ルマン24時間」でフェラーリチームを優勝に導くなどドライバーとしても超一流の経歴を持っている。

 「はしる まがる とまる」はそのPF先生が書いた、言ってみれば「クルマ運転の教則本」である。彼のレーシングトラックでの経験をはじめ、ドライバーとしての長い経験を元にして説かれる運転のテクニックは実に合目的的であり、これをそのまま実行すれば公道上での安全でスマートかつスピーディーなドライビングが出来るようになること請け合いである。

 PF先生のアドヴァイスの一部をご紹介しよう。

1.正しい運転姿勢
    安全かつハイスピードなドライビングの第1歩はまずシート合わせから。
    女性の多くのシートポジションは前過ぎであり、運転に自信がある男性の多くのシートポジションは後ろに過ぎる。
     ステアリングの一番上を持ったときに肩がシートバックから離れないこと。
       シートのスライド、リクライニングだけではなくて、ステアリングのチルト、テレスコピック機能がないと完璧なポジションを
       取るのが難しいことは事実だが、基本に近づける努力をすること。またシートベルトのアンカーの調節もお忘れなく。

2.カーブでの走り方
    道幅をいっぱいに使ってできるだけ大きな回転半径で旋回する。
     右カーブの例:カーブの手前でクルマをできるだけ左端に寄せカーブの頂点もしくはその直後をかすめ、左端しまで
       クルマを寄せていく(勿論反対車線にははみ出さない範囲で)。
       これがコーナーをより早く走り抜けるテクニックだが、より遅いスピードでこの走り方を実践すれば、例えばコーナーの
       頂点に砂が出ていたり濡れていたりする場合の安全性が高まることになる。

3.ペダルの踏み方
    AT車のブレーキは左足で踏む
     右足でアクセルとブレーキの両方を操作する場合に、とっさの場合、アクセルペダルの上にあった右足をブレークペダル
       の上に移動し踏み込むまでどれほどの時間がかかるか考えてみればよい。右足でアクセルペダルを、左足でブレー
       キペダルを操作していれば、足の踏み替え(移動)なしに、瞬時にブレーキペダルを踏むことが可能になる。50Km/h
       で走行している場合、仮に0.2秒踏むのが早ければ2.8m手前でとまることが可能なのだ。ただし、左足ブレーキのた
       めには安全な場所で十分練習を積むこと。ちなみに現代F1のマシーンはすべて2ペダルのセミATであるが、すべての
       ドライバーが左足でブレーキを踏んでいる(ジャン・アレジが右足でブレーキを踏んでいた最後のドライバーか)。

 「はしる まがる とまる」には、普通のドライバーが普通の道路をより安全に走るためのアドヴァイスが書かれているが、その基本はサーキットをより早くより安全に走るためのテクニックとまったく同一であるから、本書は安全に走りたい、早く走りたいすべてのドライバーにお勧めすることができる。更に、より安全により早く走りたいという方には同じくPF先生の「新ハイスピード・ドライビング」1993年12月10日初版 二玄社 本体1,553円(オリジナル版「ハイスピード・ドライビング」は1966年7月16日初版)をお勧めする。クローズドサーキットおよび公道におけるスポーツドライビングのための最良のテキストとなるであろう。

 出版元の二玄社から一切の報酬をもらっていないことを付記しておきます(もっとも、遅れ馳せながら何がしかをいただけるような場合にはあえて拒否はいたしませんが(^^)。モータースポーツの入門カテゴリーではありますが、レーシング・カートにおいても上記の3点は基本中の基本となっています。郷秋<Gauche>の経験からも自信を持てお勧めする次第です。


17 August. 2004

 昨日、久しぶりに芝を刈っていて、庭の端に植えた楠の木の下に空蝉が転がっているのを見つけた。空蝉、うつせみと読むのだか殻の蝉、つまり蝉の抜け殻のことである。
蝉は幼虫として地中で6〜8年もの長きを過ごした後に地上に出て脱皮するのだが、その命はわずかに一週間。そんな蝉の抜け殻を我が家の庭で見つけたのである。

 我が家が横浜のこの地に越してきたのは6年前の6月である。と言うことは、昨日見つけた空蝉は、私がここに越してきた年に生を受け我が家の庭の地中で6年間を過ごし、そしてこの夏に「蝉」として二度目の生を受けたものの抜け殻と言うことになる。芝生の上で見つけたが、あるいは楠の木を登りその枝先で脱皮したものが落下したのかも知れない。いや、むしろそう考えるのが適当だろう。少なくともこれまでの私が見た空蝉は、ほんのわずかであったとしても、それが草の葉でもあってもコンクリートの壁であっても電柱でも、地面から何がしかの距離をよじ登ったところで見つけている。

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写真:Website「恩田の森」より

 あの殻を抜け出した蝉は今どうしているのか。今日は、あるいは今夕は鳴いていたのだろうか。わずか一週間しかない地上での命を考えると力尽きて地上に落ち、鳥にあるいは蟻に、すでにその骸を食いちぎられているのかも知れない。自然の厳しさと残酷さとは、実は私たちのすぐ近くにあるものなのだ。

 この横浜の地に越して来たのをついこの間のように思っていたのだが、気がついてみれば産み落とされた蝉が地上に現れるほどの時間が経っていたのだ。植えたときには心細いほどの楠の木も、気がつけば駐車場側の土留めに積んである煉瓦にひびを入れるほどに根を張り、二階の屋根に届かんばかりに成長している。生けるものの、残酷なまでの生命力を見せつけられる夏である。


11 August. 2004

 やはりと言うべきか、昨日の独り言に対して、このページの校正係りである金沢の近八(ちかはち)さんが、例によって誤字脱字の指摘と共に、「激しいツッコミ」のMailをくれた(^^)。

 まず最初に、近八さんの件のHDDがどのブランド(メーカー)なのかという質問にお答えしておこう。ThinkPad X31から取り外した20GBのHDDはHITACHIのTravelStarという製品で(あったような気がするがTroubleStarだったかもしれない。手元に外したHDDがないので・・・)、新たに装着しようと思ったHDDも同じメイカーの同じ名前のものである。

 さて、近八さんは「現在2.5インチのHDDは7200rpmの製品も出荷されている状況ですので、4200rpm製品で出なかった振動が5800rpm製品の設計不良により発生するとは考えにくいと思っております」、つまり設計上のミスではなく、製造過程で問題が発生した不良品ではないかと言うのである。この点については当然私も視野に入れ、販売店側にはクレームの申し入れをしているところではある(ただし現時点では返事なし)。デスクトップ用の3.5inchならばいざ知らず、ノートPC用のHDDがキーボードまで伝わるような振動を発生するのではまったく使いも物にならないし、2.5インチHDDで7200rpmの製品が既に出荷されているのだとすれば、5800rpm製品で振動が発生するなどと言うことはまったくもって、問題外である。

 もうひとつ、近八さんから「ツッコミ」を頂いた「組付けや調整の悪いDOHCより、熟練の職人がチューンしたOHVの方がいい事だってある訳ですよね?」にもお応えしておかなければならないだろう。
 勿論私は、HDDの振動のことをクルマのエンジンにたとえてOHCやDOHCと比べて、回らないエンジンのたとえとして、象徴的な言い方として「古いOHV」と書いたわけである。OHVにも素晴らしいエンジンはいくらでもある。

 例えばALPINE A110に搭載された水冷直列4気筒エンジン。1964年に登場した初期型(A110-1100)のエンジンは1108ccの排気量から僅かに66HP/5500rpmを発生するだけであったが、2年後には同じ排気量から95HP/6300rpmを発生すようになり、1969年のA110-1300Sに至っては1296ccにボア・アップされてはいるがなんと7200rpmまで回り120HPを絞り出している(レース用にチューンされたエンジンは当然更に高回転・高出力)。
 このOHVエンジンは元をたどれば純然たる実用車であるルノー8から足まわりと共に移植されたものであるが、そんなOHVエンジンもきちんとしたチューニングを施せば7000rpm超までスムーズに吹き上が素晴らしいエンジンとなるのである。

 私がHDDの回転数20%増がデータへのアクセス時間の20%短縮につながる、と書いたことについても近八さんは「シークタイム、キャッシュメモリ容量等も転送速度に影響を与え」るのでHDDの20%高速化がそのまま処理速度の20%短縮にはつながらないと、正しく補足してくださっている。まったくその通り。私が「20%増速=20%短縮」と書いたのは、象徴的な意味であって、厳密には近八さんのおっしゃる通りである(しかしだ、振動ありではあったが5,800rpm回転HDDを装着したときには、Windowsの起動は4,200rpmのHDDの時よりも明らかに数割方早かった)。

 近八さんから「激しいツッコミ」をいただいたが、昨日掲載の独り言の訂正は誤字のみとして、ツッコミ箇所についての解説はすべて本日の項に記した。それにしても近八さん、まったくいいところを突いて来るなぁ・・・。まっ、当然と言えば当然なのです。今でこそ「古書店のおやじ」ですが、近八さんは工学部情報通信工学科の卒業なのですから。
 近八さん、これからも頼りにしていますよ(^^)。


10 August. 2004

 愛用のPC、IBMのThinkPad X31のHDDを取り替えた。特に不具合があったわけではないのだが、いかんせん20GBと小さなもので残りが10%を切ってしまたために60GBのものとの交換に至った次第。
 実は1週間前に一度取り替えたのだが、キーボードに微振動(キーボードに指を乗せていると指先がしびれたのかと思うような微細な振動)がでてしまい、あまりにも不快なので再度取り替えた次第。この間に身近にあったいくつかのHDDで試してみたのだが、微振動の原因はどうやらディスクの回転数にあったらしい。

 買ったときに内臓されていた20GBのHDDのディスクの回転速度は4,200rpm、そして一週間前に取り替えた60GBのHDDは20%程高速の5,800rpmであった。この20%の増速が不快な振動を発生させ、その振動がキーボードまで伝わってきたわけである。同じブランドの40GB、4,200rpmでは振動なし、同じ容量の5,800rpmでは振動発生と言うことなので、原因はまず間違いなく20%の増速にあるわけだが、ちょっと「お粗末」の感をぬぐえない。物が高速で回転すればその速度に応じて振動も大きくなる。これを押さえるためにはより高い工作精度が要求されるであろうことくらいは素人の私でも思いつくことであるが、おそらくは工作精度はそのままに回転数だけを、あるいは無理に上げたのだろう。

 キーボードとシステムユニットが別体となっているデスクトップ型なら特に問題となるような振動だとは思わないが、小さなスペースに無理やり各機能を押し込み、HDDユニットの直上にキーボードユニットが載っているノートPCの場合は致命的である。
 4,200rpmのHDDよりも5,800rpmのHDDの方が、勿論Windowsの起動もデータの読み書きも20%早くなるわけだが、PCにおける最も重要なマン-マシン・インターフェイスであるキーボードが振動するようでは20%の回転数アップも作業効率のアップにはつながらないのだな。

 もっとも私が購入したHDDが安物の粗悪品であった可能性はある。クルマのエンジンで言えばOHVであったのか。OHCなら、更にはDOHCであったなら、6,000rpm超まで振動もなくスムーズに吹き上がる、いや、回転したのかも知れないな。
 私が最初に購入した16,000円のHDDは古いOHV、ひょっとすると50,000円くらい出すと12気筒フェラーリエンジンクラスのHDDがあるのか、更にはその10倍くらいを覚悟すれば現代のF1エンジン並みに19,000rpmオーバーまでストレスなく回るHDDが手に入るのかも知れないな。19,000rpmなら4.5倍の高速処理だ!?

 まあ、いずれにしても今後ノートPCのHDDを取り替えようかとお考えの方は、この振動の問題をくれぐれもお考えになられると良いでしょうという、郷秋<Gauche>の失敗談&アドバイスなのでありました。

追記:現在は振動なしの60GBで至って快適。毎週撮影している恩田の森の写真のデータが週末毎に1GBずつ増えていますが、これならば今年いっぱいはCD-Rに落とさなくても済みそうです。


29 July. 2004

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月見草

 はてさて、上の写真をご覧になって「月見草」だとおわかりになられた方はどれほどおられるだろうか。
 月見草の花はご覧のように白い大きな4枚の花びらを持つ花である。これが月見草だとお気づきにならなかった方の多くは、「月見草は黄色い花」とお思いになっていることと思う。それも無理もないこと。しかし、本当の月見草は上の写真の通り。

 なぜ多くの人がこの季節の道端や荒地に咲く黄色い花が月見草だと思うようになったのかと言えば、太宰治が悪いのである。
太宰が昭和13年の初秋、富士山麓を旅したときの印象を「富嶽百景」として発表したのだが、その中で、おそらく待宵草あるいは大待宵草を月見草と勘違いして「富士には、月見草がよく似合ふ。」と書いたのは、実は良く知られた話。

 月見草は北アメリカ原産の2年草で、江戸時代末期に日本に入って来ている。6月から9月にかけて、名前の通り夕方になると開花し始め、夜明け時にはしぼんでしまう。花弁はご覧の通り4枚、直径5センチほどの白い花であるが、しぼむと赤紫となる。上の写真右側の赤紫色のものは前夜に咲いてしぼんだ花。基本的には弱い植物ではなく、こぼれた種によって群生することもあるが、多くの場合雑草に駆逐されてしまうために「弱い」植物と思われているようである。

 郷秋<Gauche>の庭で咲いた月見草は、元をたどれば2年前に帰省したおりに3株程の鉢植えをもらってきたものである。花が終わり3週間ほど経つと種が出来る。この種を採っておいたのだが翌春に蒔くのを忘れてしまい、たいした期待もないままに今年6月初めに蒔いたところ、意外や意外、確かに強い生命力を持っているらしく、採取以来2年を経た種は見事に発芽、発芽後1ヵ月ほど経った頃に20鉢、40株ほどを定植したものがようやく1週間ほど前から咲き出したのである。
 その名の通り、儚げなその姿がなんとも清しい月見草である。

 一株ずつ植えた小さな鉢がいくつかあります。本物の月見草を楽しみたい方、更に種を採取し来年以降株を増やしたい方に先あげます。ただしお近くでとりにおいでになれる方限定。遠方でご希望の方には秋に採取した種をお送りしますので、ご希望の方は遠慮なくご連絡下さい。「種の採り方・育て方」もご一緒にお送りします。 gauche@dream.com


11 July. 2004

 先日、ニコンから「お使いのカメラのファームウェアをアップデートしてください」というMailが届いたのだが、ようやく今日、アップデートの作業を行った。ファームウェアは、ソフトウェアの一種だけれど、ハードウェアにずっと近いもの。ハードウェアに組み込まれていてソフトウェアとハードウェアの仲立ちをするものだ。そのファームウェアを書き換えろというのだ。

 私が使っているのはニコンのD70というデジタル一眼レフ。つまりこのカメラのファームウェアの最新版がリリースされたから更新するようにということなんだな。ハードウェア、つまり機械的構造体としてのカメラの中身はそう簡単には変えられないけれど(例えば、耐久性に問題があるなどで、材質や工作精度が変えられていることはあるかもしれないが)、ファームウェアを含めたソフトウェアは自由に、いつでも変えられるのだ。

 例えばクルマだって今ではコンピュータなしでは動かない「機械」だ。だから定期点検のときなどにユーザーが知らないうちにこっそりファームウェアがアップデートされていることだって大いにありうる。
 クルマとカメラの違いはと言えば、クルマは定期的な点検や臨時の点検・修理のためにサービス工場に入るけれど、カメラは壊れでもしない限りそういうことはない。だからユーザー登録のときに知らせたE-Mailアドレス宛に、自分でアップデートせよと連絡してくるわけである。

 そう言えば、ちょっと前までのF1ではスターティンググリッドに並んだマシンのサイドポンツーンの上にノートパソコンを乗せてエンジンや車体をコントロールするコンピュータのプログラムを書き換えている姿を見かけたけれど、この頃は見かけない気がするけれど、無線でデータを飛ばしているのだろうか。レース中にプログラムを書き換えることが出来るとか出来ないとか(技術的には勿論出来る)話題になったけれど、レギュレーションでは禁止されたのかな?

 さて、今回のアップデートは、「4GB を超える容量の CF カードに対応した」とか「中国語のメニュー画面のメッセージに誤字があったのを訂正した」とか、私が使用する範囲では大きな問題にならないもので、所謂バグの修正と最新の記録メディアに対応するための修正だ。これ以降出荷する製品には当然最新のファームウェアがインストールされるわけだけれど、既に購入済みのユーザーもサービスセンターの手を煩わすことなく自分で最新のファームウェアに書き換えることが出来のだから便利。購入したあともカメラはどんどん進化していくということだ。

 それにしても、かつて時計と共に精密機械の代表選手であったカメラも今ではすっかり電子機器。ユーザー自らがファームウェアのアップデートをするようになるとはまったく想像もしていなかったから、技術革新の早さにあらためて驚いた郷秋<Gauche>なのででありました。


1 July. 2004

040630_048.jpg (26192 バイト)

 今日はこの写真について少し書いてみたい。この写真は昨日(6/30)の夕方、青葉区にあるなるせの森の尾根道から撮影しWebsite恩田の森に掲載したものである。

 撮影場所の尾根道は横浜市青葉区と東京都町田市の境の道であり、その道がまさに都県境だとすれば、その境界線から1メートル程東京都側に入ったところから南南東を遠望し撮影した写真ということになる。
 手前に見えている田んぼはなるせの森の台地の田んぼ、そしてその向こうの山は台地と南の谷戸の入り口付近を隔てる森である。森の向こうに僅かに見えているのが、おそらく横浜市緑区の町並み。更に遠くみなとみらい地区のビル群もかすかに見えている。写真左端にランドマークタワーとパン パシフィック ホテル横浜の影が見えているのをお判りいただけるであろうか。

 最近はトンとご無沙汰ではあるが、私が俳句を詠むのをご存知の方もおられるだろう。俳句の世界では、自作の句に解説を加えないのが習いとなっている。俳句を読まれた方がたとえどのような解釈をされたとしても、仮にその解釈が作者の意図とは違ったものであったしても甘んじなければならないという「ルール」である。
 僅か17音ですべてを表現しなければならない俳句においては、時として状況の説明が不足して作者の意図するところとは違った解釈をされることがあるが、もし、そうであったとすれば作者の工夫が足りなかったのであり、それを補足するために解説を加えることは見苦しいとされているのである。

 私としては自作の写真についてもこれに倣い、撮って、ご覧頂いた写真の解釈はすべてご覧になる方に委ねたい、必要以上の解説は控えたいと常々考えているのであるが、今回はWebsite恩田の森でこの写真をご覧くださった複数の方から、「不思議な写真ですね」というMailを頂いのを機に、禁を破って(と言うほどおおげさなものではないが)ちょっとだけ解説を書いてみる気になったのである。

 山がちの土地で生活したことのある方ならご存知の通り、山の日の出は遅く、日の暮れは早くやってくる。勿論太陽の昇り沈みが山に遮られるからである。上の写真はまさにそんな状況、つまり、太陽は西の山の向こうに早々と沈みなるせの森は暮れかかっている、しかし山に邪魔されない緑区さらには遠くみなとみらい地区のビル群は夕日に照らされピンク色に輝いているのである。
 まあ、種を明かせば簡単。太陽の位置となるせの南の森とその向こうの緑区あたりの位置(高さ)関係である。沈みかけている陽の光が、手前の森には当たらないが遠く緑区さらにはみなとみらい地区にはあたると言う微妙な高さ関係にあるということだ。

 恩田の森の間を流れる奈良川はやがて恩田川とひとつになり更に鶴見川と合流し横浜の港に注ぐ。当然港よりなるせの森が高い位置にあるわけだが、上の写真の不思議の一つ目は森とほとんど同じ位置に田んぼがあるということだろう。田んぼは低地にあるもので、向こうの森とほぼ同じ位置にある田んぼがなんとも不思議なわけである。
 二つ目の不思議は、田んぼと森はすっかり陽がかげり暮れているのに、その向こうに見える街だけが夕日に染まっていること。そそして三つ目の不思議は、その夕日に染まった街が森の上に見えているということだろうか。おそらくはこの三つの不思議が重なりあってこの写真をなんとも不思議なものにしているのだろう。

 考えてみればこんなことも起こり得るのだと理解はできる、が、確かに現実にこういった風景を目にすることは少ないかも知れない。尾根道から見るピンクの街並みが森の上にほんの僅かにのぞいていただけであったが、私も最初にこの景色を目にした時にはしばし呆然としていたものである。カメラを構えてみると、目の位置よりもレンズの位置が僅かに低くなる一眼レフの構造ゆえ、ピンクに染まる街並みは肉眼で見るよりもさらい僅かなものとなる。あたりを見回すと尾根道の北側でちょうど良い具合に少し高くなっているところがあったので急いでそこに登り再びファインダーをのぞくと、ピンク色の街並みはほんの少しではあるがその厚みを増していた。

 確かに不思議な写真かも知れない。手前に暮れ行く田んぼと森、その向こうに夕日に染まる都会の街並みが見えるのだから。恩田の森が都会の中に残された森であることを、都会の中の森であることを思い出させてくれる写真となった。

Website恩田の森  http://www33.ocn.ne.jp/~musica/on/index.html
写真掲載ページ http://www33.ocn.ne.jp/~musica/on/onda_now.html 


21 June. 2004

 大変ながらくお待たせいたしました。B・A・R Hondaの佐藤琢磨選手、アメリカグランプリにおいて3位表彰台です!


18 June. 2004

 ちょうど一週間前、6月11日にこんなニュースのタイトルを見て、郷秋<Gauche>は自分の目を疑った。その記事は「280馬力」規制撤廃へ 国交省も前向き 自動車工業会」というものだ。

 クルマのエンジンは280馬力までという規制は、別に法律で定められているわけではない。今から14年前の1990年(平成2年)に、エンジン出力の高い高性能車の事故が多発したことなどから、日本自動車工業会が自主的なルールとして定めたものである。パワー競争が際限なくエスカレートすることを避ける狙いもあったようだ。
 1990年前後がどんな年であったか思い出して欲しい。そう、日本は根拠のない好景気の絶頂にあり、ありとあらゆる贅沢・快楽に酔いしれていたその時なのである。ではなぜそんな時にこの馬鹿げた申し合わせが行われたかと言えば、こんなわけがあったのだ。

    1989年 日産R32スカイラインGT-R(2568cc,ターボ過給,280ps/6800rpm,36kgm/4400rpm)登場
    1990年 ホンダ NSX(2977cc,280ps/7300rpm,30kgm/5400rpm)登場
          ユーノス(マツダ)コスモ(1954ccターボ過給3ローター),280ps/6500rpm,41kgm/3000rpm)登場
          トヨタスープラ(2491cc, ターボ過給,280ps/6200rpm,37kgm/4800rpm)モデル追加

 そう、1988-1990年と言うのは、トヨタ2000GT、日産フェアレディZ、マツダコスモスポーツ、ホンダスポーツ(S500,S,600,S800)などが相次いで登場した1960年代半ばに次ぐ、国産スポーツカーのヴィンテッジイヤーなのである。そして先にあげた4車種の馬力がそろって280馬力であることに、読者諸賢は既にお気づきのことと思う。
 NSX、コスモ、スープラが登場したのが自主規制発効の前か後かはわからないが、自主規制制定の前年に登場したR32スカイラインGT-Rの280馬力に揃えたのは明白である。

 車両重量が1400Kgだとするとそのパワーウエイトレシオ(1馬力当たりの車両重量。単kg/psで表す。この値が10.00以下なら、通常の乗用車ではその速度性能に、一般的には不満は出ない)は5.00となり、相当な高性能車であることがわかる。
 当時、この280馬力を可能にするためだけでも相当な開発費をかけたと思われるが(コスモの過給気付3ローターロータリーエンジンは軽く300を越したかも)、これ以上の馬力競争には(主に開発費の面で)耐えかねると各メーカーが考えたのではないかと郷秋<Gauche>は想像するのだな。

 当初は3年で見直すことになっていたこの自主規制が何故14年も続くことになったのかはわからないが、280馬力規制は日本自動車工業会に加盟する自動車メーカーのみが拘束されるわけで、それ以外のメーカー、つまり海外のメーカーはこの規制に拘束されずにこの14年間、オーバー280馬力のクルマを日本で販売し続けてきたわけだ。
 今頃になって何故この自主規制を撤廃し、また国土交通省もこれに前向きであるのかはわからないが、海外の、特にドイツ(とイタリアの一部)のメーカーにこの点で付けられた差を取り戻そうと言うのだろうか。

 いづれにしても日本のメーカーが日本国内で販売するクルマには車速が180km/hを越えると燃料の供給を遮断する装置が付いているので、たとえエンジンが300馬力になろうと400馬力になろうとスピードの出し過ぎによる事故が多くなるとも思えない。ましてや信号が多い日本の道路事情の中では車の速度性能を左右するのは馬力ではなく、実はトルクなのである。一般的に、同じ排気量のエンジンで無理に馬力の数値を上げようとすれば、トルク値は小さくなる。逆に14年間続いた280馬力規制の間に、各メーカーはエンジンのトルクを分厚くすることでクルマを早く走らす方向に進み、トルク値はうなぎのぼり。

 2004年モデルの三菱ランサー2.0 RS エボリューションVIII MRは1997ccの排気量から280ps/6500rpm,40.0kgm/3500rpmを絞りだしているし(まぁ、命が惜しい方はこのメーカーのクルマには乗らないほうが良いとは思うけれど)、同じく2004年モデルのスバルインプレッサ2.0 WRX STi スペックCは1994ccから280ps/6400rpm,42.0kgm/4400rpmを捻り出しているのである。

 1990年当時、ランサーやインプレッサと同じ過給付きのレシプロ(ピストン)エンジンを搭載したトヨタスープラは2491ccのエンジンからたったの37kgm/4800rpmのトルクしか得ることができなかったのである。14年の間に20%少ない排気量のエンジンから13%大きなトルクを得られるようになったわけで、排気量1リットル当たりで比較すると14.85kgm/L から21.06kgm/L へと、何と42% Upである。馬力だけを規制しても、現実的な街中での加速性能、乗りやすさの基準となるトルク値は青天井で14年間に4割以上も向上してしまったのだから、280馬力規制はまったく無意味であると言える訳だな。

 ところでだ、280馬力マシーンが次々に登場する前年、国産スポーツ第2の全盛期の幕を開けた、マツダ(ユーノス)ロードスター(1988年登場1597cc, 125ps/6500rpm,14.5kgm/5000rpm)のことを思いだそうではないか。自然吸気の4気筒1597cc のエンジンの出力は僅か125psだったけれど、車重が1010kgしかないから8.08 kg/ps。超高性能車の基準と言える5.00kg/psには遠く及ばないけれど、快適なハンドリングでクルマを操る楽しさを思う存分に味わうことができたのである(らしい。恥ずかしながら不肖郷秋<Gauche>、ショールームに鎮座しているロードスターにしか乗ったことがない。トホホ)。

 長々と書いたけれど、郷秋<Gauche>が言いたかったのは、280馬力なんていらない、もっと小馬力でいいから、小さくて軽くてお洒落でカッコいい、真にハンドリングを楽しめるクルマを作れよ!ということなんだな。

  例えばだ、3600*1650*1200 mm,950kgのボディーに自然吸気1600cc,160psのエンジンを載せてみろ。
  5.9kg/psだぞ!いいじゃないか!!


 ちなみに郷秋<Gauche>の306は9.0 kg/ps。パワー的な物足りなさはクイックで正確なステアリングとお洒落なボディースタイルが十分以上にカバーしているし、レーシングカートでスピードの恐怖に対する快感を覚えてしまった郷秋<Gauche>にはこのくらいがちょうどいい。5.0kg/psに乗ったら命がいくつあっても足りなそうだから(^^;。


15 June. 2004

 先週の火曜日に「おもちゃ箱」と「恩田の森」の更新のご案内を差し上げたところ、早速「恩田の森」をご覧くださった方からご感想のMailを複数いただきました。Internetがこれまでのメディアと違う最大のポイントの一つはインタラクティブであるということですが、ホームページご覧になられてのご感想やご意見を聞かせいただける機会は意外と少ないですから、こうして感想をお聞かせいただけるのは嬉しいものです。
 今回オープンした「夏」のページの中の、なるせの森の分かれ道の写真が大変好評だったようですね。私のお気に入りの場所のお気に入りの写真でしたので嬉しかったです。

 さて、今回頂いたMailでPhotoshopでのレタッチの方法についてのご質問を頂きましたので、お答えになるかどうかわかりませんが、ホームページに載せる写真の加工について少し書いてみたいと思います。

 PhotoshopはAdobe社の画像処理ソフトウェアで、この手のものでは一番有名かつ使われているものだと思いますが、フル規格版のPhotoshop CSは実売価格でも10万円以上する高額なソフトですので、私はPhotoshop Elements 2.0 plus Adobe Photoshop Album 2.0という2万円弱の簡易版を購入しました。簡易版とは言っても奥が深く、私のようなトーシロにはとても使いこなせません(^^;。Photoshop Albumはデジカメで撮影した写真のデータを、フィルムやプリントをファイルするようなイメージで整理・管理してくれる便利なソフトです(このソフトで画像を表示しプロパティをクリックすると撮影した年月日時分秒、レンズの焦点距離、Fナンバー、シャッタースピードなど、撮影時のデータを表示してくれます)。

 PhotoshopあるいはPhotoshop Elementsの使い方の詳細については市販の解説本をお読みいただくとして、以下はWebに写真を載せたい初心者向けの私なりのアドバイスとしてお読みいただければ幸いです。

 まず、Webに載せる写真の一番の条件は「軽い」ということ。ブロードバンドをお使いの方が増えたとは言え、まだまだアナログ56KB/Sの回線をお使いの方も多いし、モバイルでは32-64KB/Sをお使いの方も多いはず。
 写真の大きさと重さをどの程度にするかはWebmasterによって考え方がそれぞれかと思いますが、「恩田の森」の写真は315*209ピクセルの写真と155*103ピクセルの小さな写真とを適宜使い分けています。重さは前者がおおよそ30KB、後者が8KBといったところです。

 「恩田の森」の写真は、他の写真を中心とするサイトと比べると小さい方だと思いますが、例えば「夏」では1ページあたりの写真の数が多いために250KBと、ページ全体としては重たくなっています。「恩田の森Now」に至っては800KB(2004年6月15日時点)もありますので、あまり良いページの作り方とは言えませんね(^^;。「恩田の森Now」は近日中に月毎に分割し450KB程度にする予定ですが、これでもアナログ回線をお使いの方には相当なストレスになることと思います。個人的には、現時点では1ページあたり200KB程度がベストではないかと思っています。

 600万画素のカメラで撮影した画像はJPEGで保存しても1枚当たり3MB弱の容量になります。Webに載せるためにはこの写真を小さく軽くする必要があるわけですが、私が使っているPhotoshop Elements 2.0では次のように処理をします。

    イメージ > サイズ変更 > 画像解像度

 「縦横比を固定」にチェックを入れた状態で幅を315にすると、高さが自動的に209と設定され画像が315*209ピクセルに縮小されます。この状態でも画像は200KBほどの容量ですから更に軽くする必要があります。軽くするにはこうします。

    ファイル > Web用に保存

 この画面で「最高画質」を選ぶとおおよそ25KBに、「高画質」を選ぶと15KB程の軽さになります。ようやくWebに載せられる、程々の重さ(軽さ)になったわけです。

 さて、最高画質30KBの画像と高画質20KBの画像の違いですが、一般的にはディスプレイ上での判別はかなり難しいと言えます。私は花のUpは高画質、「引き」の風景は最高画質に指定しています。なぜなら、小さな範囲を撮影したものは一般に解像度が高く、広い範囲を撮影したものは低く見えるからです。Webに載っている花のアップの写真と所謂「引き」の風景写真を比べていただければ、私がここで言わんとしていることをご理解いただけることと思います。

 説明の都合上、本来一番最後に来る小さく軽くするプロセスを最初に説明することになってしまいましたがいよいよ本題、Web上で見やすい画像を作るコツです。実際の作業手順は次の彩度を高めるのが最初の作業となります。

 Web上で見やすい画像のポイントは、明るくてコントラストが強いということ、更に彩度(色の濃さ、と理解いただいて結構です。彩度を低くすると色が薄くなり、-100にするとモノクロームになります。これはこれでなかなか魅力的ですが)が高い、つまり色合いのはっきりしている画像です。こうして調整します。

    画質調整 > カラー > 色相・彩度

 この画面で、「どぎつく」ならない範囲、おおよそ+20くらいの範囲で彩度を高くします。更に変化を求める方は「色相」をいじってみてください。次に明るさとコントラストを強めます。

    画質調整 > 明るさ・コントラスト > 明るさ・コントラスト

 この画面で明るさとコントラストを調整しますが、私は明るさを+12にしたらコントラストはその半分の+6くらいにするのをおおよその目安としています。勿論これも彩度を高めるときと同じで、画面の変化を見ながら「どぎつく」ならない範囲で調整します。
 画像の彩度を高め、明るさ、コントラストを強め(調整し)て写真の出来上がりです。ここでようやく最初に説明した、写真を小さく、軽くする作業に入ることになります。

 こうして文章にするとやたらに長いものになってしまい、はたして正しくご理解いただけたかどうか、かなり心配ですが今日のところはここまでとしておきます。更にご質問がおありの方はMailにてご連絡ください。一緒に勉強いたしましょう(^^)。

 上記の説明のでわかりにくい部分については、具体例として適宜

onda_banner_s.jpg (2986 バイト) http://www33.ocn.ne.jp/~musica/on/index.html 特に ONDA Now をご参照ください。


25 May. 2004

 鉢植えにしているのですが、我が家にオリーブの木が一本あります。引っ越してすぐにハーブの寄せ植えを作ったとき、その中心にしたものでしたが、今ではそろそろ下におろそうかと言うほど大きくなってきていました。
 昨年の夏過ぎに緑の実をつけやがて黒く熟していましたので、気が付かないうちに花が咲いていたのだなと思い今年は気をつけていたところ、10日ほど前にから花が咲きだしました。

olive.jpg (23815 バイト)

我が家のオリーブの花

 なかなか写真を撮るチャンスがなかったのですが、今朝の晴天に誘われて出勤前に撮ってみました。写真では見にくいのですが、小指の先ほどの小さな花が枝先にたくさんついています。このくらい小さな花になるとやはりマクロレンズがないと苦しいですね(^^;。ちょっと珍しいかな?ということで載せてみました。


24 May. 2004

 昨日(23日)の夜、久しぶりに面白いレースを見た。もちろんFormula1 モナコグランプリの話だ。
 今回のレースの見所は、開幕6連勝なるかという4番手スタートのミヒャエル・シューマッハの走りっぷり、初めてのポールポジション(予選1位)を獲得したヤルノ・トゥルーリ(ルノー)とセカンド・ロー(同2位)を獲得したジェンソン・バトン(BAR・ホンダ)の戦い、そして7番手からスターをする佐藤琢磨(BAR・ホンダ)がどこまで追い上げられるかであった。
 結果は既にご存知の通り、J.トゥルーリの初優勝、そしてJ.バトンが2位、M.シューマッハと佐藤琢磨はリタイヤとなった。

 今回のレースの舞台となったモンテカルロ市街地コースでは、1992年開幕6連勝を目指すナイジェル・マンセル(ウィリアムズ・ルノー)がぶっちぎりのトップを走行していたにも関わらず、終盤にホイルナットの緩みを感じ緊急ピットイン、この隙にトップに立ったアイルトン・セナのマクラーレン・ホンダを猛追し、文字通りの死闘を繰り広げたのであった。12年前の話である。

 結果はと言えば、マシンの性能で勝るウィリアムズ・ルノーとN.マンセルのドッグファイトをもってしても、狭いモンテカルロのコースではセナのマシンを捕らえることはできても結局パスすることができないままフィニッシュを迎えたのであった。
 あの伝説のレース(私はここ18年間、全戦TV観戦してきたが1992年のモナコはベスト・レース)から12年を経た今年、同じモンテカルロで開幕6連勝に挑戦したM.シューマッハもまた、その偉業を果たしえなかったのである。
 12年前、ルノーエンジンを搭載したマシンの開幕6連勝にストップをかけたのはホンダエンジンであったが、今回フェラーリの開幕6連勝にストップをかけたのがルノーであったのは因縁と言うべきであろうか。

 M.シューマッハがアクシデントでリタイヤした後の見所はそれぞれ初優勝を目指すJ.トゥルーリとJ.バトンの戦い。J.バトンは、少なくとも今回のレースではルノーのマシンを上回る力を持っているかに見えるBAR・ホンダを駆り、終盤にはその差1秒以下にまでJ.トゥルーリ追い詰めプレッシャーをかけ続けるが結局そのままゴール。ホンダのF1挑戦第3期における最初の優勝は惜しくも逃す結果となったが、118戦目にしてついに表彰台の頂点に立ったJ.トゥルーリの落ち着いたレース運びは、それに相応しいものであった。

 さて、エンジンブローのため僅か3周で残念なリタイヤとなった佐藤琢磨についても触れておかなければなるまい。
 7番手からのスタートで一気に3台を抜き去り4番手で第一コーナーに飛び込んだ映像を、私は驚きと期待をもって見つめていた。なんと2台のフェラーリとキミ・ライッコネンのマクラーレンを一気にパスしたのである。繰り返し放映されたリプレイでは、自身のマシンの右側を一気に追い越して行く琢磨のマシンに気づいたM.シューマッハがあわてて避けるシーンがしっかり納められていた。前人未到、7度目のワールドチャンピョンに挑む彼もさすがに度肝を抜かれたのではないだろうか。それは2001年に伝統のイギリスF3を制し、F1デビューの直前にマカオグランプリに敢えて挑戦し、見事優勝をもぎ取った琢磨の実力をあらためて知らしめる映像であった。

 今シーズン中には必ずや、一度ならず表彰台上の琢磨の姿を見ることができるであろうという、私の予想をここに記しておきましょう。さて、結果は如何に。

30 May. 2004(追記)

先週に続いて行われる、Formula1 ヨーロッパグランプリの予選では佐藤琢磨は自分が持つこれまでの予選最高位グリッドを更新する2番手、なんとフロントローからのスタートです。ワールドチャンピョンに輝くこと6度の、あのミヒャエル・シューマッハの隣からのスタートですぞ。モンテカルロでのスーパーロケットスタートが再現されれば・・・フゥオ、フゥオッ、フゥオッ。

「郷秋<Gauche>の独り言」校正係り、金沢の近八さん、いつもありがとうございます。これからも頼りにしていますよ(^^)。


21 May. 2004

 またしても「本」に掲載されていた『大人のための文章教室』(清水義範氏、講談社のPR誌2004年6月号)の話題である。今回は第12講、いよいよ最終回。最後の回のテーマは『文章上達のあの手この手』である。

 これまでの11講を経て、清水氏の結論は「書くためには、まず読んでなければならない。読まないでおいて、うまく書きたいというのは無理な願い。小説も、随筆も、論説文もすべてよく読んでいて初めて、うまくそれらを書く可能性が出てくる」である。

 まあ、当たり前と言えば当たり前の結論。ポイントといえば、最後の「うまくそれらを書く可能性が出てくる」だな。たくさん読んだ人が、必ずしもうまい書き手になるとは限らないということだ。これもまた当たり前と言えば当たり前。たくさん読んだ人すべてがうまく書けるなら、世の中小説家と随筆家ばかりになってしまうではないか。そんなことはありえない。

 自分が好きだと思う書き手を真似て何作も書くのがうまくなる方法、読んでくれる人を意識して書くのが、うまくなるためのトレーニングなのだと氏は言う。まあ、確かに。当たりまえのことが当たり前のように書かれていても、ついつい読み進んでしまう清水氏の文章は、やはり「うまい」のだろうな。

 写真がうまくなりたい郷秋<Gauche>としては、ここで文章も写真も同じなのだなぁと、あらためて思った。
 こんな写真を撮りたいなという、うまい写真をたくさん見てイメージトレーニングをする。「このレンズは100mmだな。このボケ具合からすると絞りは開放・・・」と。それでも同じようなうまい写真はなかなか撮れないから難しい。考えるまでもなくこれも当たり前の話だ。こんな簡単なことで上手な写真が撮れるなら、世の中プロの写真家、カメラマンだらけになってしまうではないか。

 うまい文章を書く方法を教えてくれる文章があるのと同じように、うまい写真を撮るための方法を教えてくれる文章というものもまた存在する。つい最近、うまい写真を撮るためのテクニックとしてこんなことが書かれているのを目にした。

  「まずフォトジェニックな被写体を探し求めることだ」(森と樹を撮るテクニック7 学研グラフィック百科 週刊日本の樹木 No.07)

 けだし名言である。
 確かに同じフォトジェニックな被写体を目に前にしても、レンズは何ミリ、どの角度から、ピントはどこに合わせて絞りはいくつ、シャッタースピードは・・・と、決めるのは人間だから(あとの二つは自動も可ではあるが)、上手に撮れたりそうではなかったりということは確かにある。それが「腕」だな。でもなぁ、「まずフォトジェニックな被写体を探し求めることだ」って、これ言っちゃったら身も蓋もないんじゃないか。

追記:清水義範氏の『大人のための文章教室』は、講談社現代新書として今秋刊行予定とのことです。


14 May. 2004

 「本」に掲載されていた『大人のための文章教室 第11講 随筆の書き方の裏技表技』(清水義範氏、講談社のPR誌2004年5月号)を、随筆(エッセイ)を書いているつもりの郷秋<Gauche>は大変興味深く読ませていただいた。
 清水氏はまず最初に、随筆とエッセイの違いについて簡単に触れている。「エッセイのほうがやや思索性が強い」としながらも、同時に「ほぼ同じものをさす」として話を先に進めている。本当のところは、この二つのものは明らかに違うものであると思いながらも僅かな紙幅では本題が入り切れないからと、半ば諦めの気持ちでペン(キーボード)を先に進めざるを得なかったのであろう。随筆とエッセイとの違いについて書けば、それだけで一つの「随筆」となることであろう。

 まずこのことについて言えば、郷秋<Gauche>的には随筆とエッセイは別のものだと感じている。ならばその理由を述べよと言われても困るので「感じている」と書いたわけだが、少なくとも、書く時にこれは随筆、これはエッセイと分けて書いているつもりである。このページに掲載されているものの大部分はエッセイであるが、時に私自身が「随筆」のつもりで書いているものもある(今年であれば2/28のもの)。もっともその類はごく僅かで年に数本と言ったところだろうか。私が書くものは「思索的」と言えるほどのものではないので、随筆はちょっと硬いもの、エッセイは気軽に読めるもの程度の違いでしかないけれど。

 前置きがいささか長くなり過ぎたが、さて、本題。

 タイトルが『随筆の書き方の裏技表技』であるから、当然どう書けば読み手が面白いと思ってくれる随筆(エッセイ)を書くことが出来るのか、そのポイントが簡潔にまとめられている。
 文章の書き方の本を何冊か読んだことがあるが、その手の本の多くは最初の数ページを読んだだけでそれ以上読み続けるのが嫌になってしまうことが多い。なぜかと言えば、文章の書き方のHow to物であるにも関わらず、多くが全編これ悪文の手本なのである。その点清水氏の『大人のための文章教室』は良い。毎回A5判8ページ程と適当なボリューム、かつ、文例が○の場合も×の場合も面白くて、読める。

 氏によれば「体験にもとづいて書く」ことがポイントであるらしい。そしてその体験を通して自分が考えたところを続けるのが良い随筆を書くコツらしい。まぁ、事実は事実として簡潔に書けば良いわけだけれど、難しいのはそれに対する自分なりの「考えるところ」なのだな。時々、事実だけを淡々と書き連ねた「エッセイもどき」を目にすることがある。「隣の家のおじいちゃんがああした、こうした。そうこうするうちに孫の陽子ちゃんがどしてこうして・・・」だからそれがどうしたの?と言いたくなる。「オチがないじゃん」と清水氏言うところの「最近の若い人」でなくても、言いたくなる。

 「自分が考えるところ」も小難し過ぎず軽すぎずという按配が難しいのだろうな。「フムフム、君はそう考えたわけだね。僕はこう考えるけれど、君の考え方もなかなか面白いね。で、これについては君はどう捕らえるの?」という程度の自分の出し方が受ける随筆のポイントなのかな?氏がいう「さりげなくて、品がよくて、知性が漂っている」ように自分を出すのは難しいけれど。

 ひとつの随筆は、四百字詰め原稿用紙で四、五枚にまとめるのがいいらしい。
 この郷秋<Gauche>の独り言がどうかと言えば、1行約60文字(プロポーショナル・フォントを使っているから文字数が一定しない)で35行、2,100文字というのが平均的なところだろうか。だとすると四百字詰め原稿用紙で五枚とちょっと。清水氏言うところの適当な分量、というところだ。郷秋<Gauche>としては、WebPege特有の問題として全体のボリュームとともに読みやすさを考え「段落」とは別に5行300文字程度で「大段落」として空白行を開られるように注意して書いているつもりである。

 エッセイについてのエッセイを書くのは、きっと文章の書き方の文章を書くのと同じ難しさがあるな。もっとも私は、ここでよいエッセイの書き方についての講釈を垂れているのではなく、「清水氏の『随筆の書き方の裏技表技』を読んだという実体験にもとづき、そこから考えたこと」を四百字詰め原稿用紙で四、五枚程度に書いのである。果たして面白いエッセイになっただろうか(^^;。


11 May. 2004

 4月11日にお知らせをいたしました、郷秋<Gauche>が作る新しいWebSite「恩田の森」が予定通り5月1日に正式オープンしました。まだご覧くださっていない方は今すぐ下のバナーをクリック(^^)。

onda_banner_s.jpg (2986 バイト) http://www33.ocn.ne.jp/~musica/on/index.html

 WebSiteにおける「正式オープン」の意味がいたって怪しげであることについては4月11日に書いたけれど、それはそれはやっぱり怪しげなのです。何故かと言えば、正式オープンの翌日には「かつらの森」のプロフィールを追加、その翌日には「なるせの森」のプロフィールを追加、更にその1週間後(つまり昨日)にはメニューバーをJava Scriptを用いたプルダウン方式に変更、「ONDA Now」を追加とノッケから変更に次ぐ変更、追加に次ぐ追加で、いったい何が正式オープンなのか・・・。

 もっともwebSiteというものの性格からすると当然なんですね。印刷媒体の出版物とは違い、一度Upしたコンテンツも必要に応じて何度でも変更し、新しいコンテンツをどんどん追加していく。WebSiteを見る方も、このサイトならこの程度の頻度で更新がされているだろう、されていて欲しいという期待を持って見る。だからその期待を裏切ると次には見てくれないということになる訳だな。
 例えばこの「独り言」はどうだ?昨年の10月には何を血迷ったのか連続2週間ほぼ毎日更新などということもあったけれど、このところはほとんど月一ペース。もっともここ1ヶ月は「恩田の森」にかかりきりで、とても「独り言」を言っているゆとりもなかったのではありますが(^^;。

 その「恩田の森」も春夏秋冬、年に4回だけの追加・更新では魅力に欠けるかな?ということで昨日 ONDA Now を追加。気持ちとしては「Today's ONDA」なんだけれど、さすがに毎日更新は難しいだろうというわけで「恩田の森の今」。心積もりとしては週一の更新なんだけれど、さてどうなることやら。「今の森」の様子をご覧いただけれれば幸いです。

 さて、ここで森の樹木ではなく我が家の庭木の話題。
 ここ数日冷たい雨の中で凍えていたエゴノキの蕾が、今朝の好天に誘われ一斉に開花。庭いっぱいに甘い香りを漂わせています。ここ数年、開花の頃に雨となることが多くなかなか写真でご紹介する機会がありませんでしたが、ようやくご紹介することができました。

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我が家のエゴノキの花

 エゴノキは恩田の森にもあるのだとは思いますが森の中にあっては地味な樹木で、花の時期じゃないとなかなか気がつかないようです。今度の日曜日には可愛らしい花をつけているのを見つけることが出来るかも知れません。

 上の写真、3/29掲載のソメイヨシノの写真と比べて横長になったのに気づかれた方はいらっしゃいますか?トリミングしたわけでなありません。実はカメラを新しくしたんです(^^)。

23 May. 2004(追記)

 15日に森に行ったとき、あちこちでエゴノキの花が咲いているのを見つけました。花が咲いて初めて「あぁ、これ、エゴノキだったんだ」と言うくらいあちこちで(^^;。気がついて見れば確かに葉っぱも木肌もエゴノキなのにどうして今まで気づかなかったんだろう・・・。そういえば我が家の庭にエゴノキを植える時、植木屋の親父が「このエゴは山どりだ」と言っていたのを思い出しました。
 こちらに、なるせの森のエゴノキの花(5/22撮影)を掲載しましたのでご覧ください。


22 Apr. 2004

 読者諸兄姉は、木で出来たクルマをご存知だろうか。モックアップやおもちゃのクルマではない、木で出来た本物のクルマ。110年前、クルマが「馬のいらない馬車」として走り出した頃のクルマ-自動車-は、まず木製であったのだと思うけれど、私が言っているのはそんな昔の車のことではないのです。

 イギリスのモーガン(MORGAN)というスポーツカーをご存知だろうか。たとえばこのモーガン、ちょっと前までのカタログモデル「+4」のボディーにはアッシュウッドと呼ばれる木骨が使われていました。また2000年登場の最新型「エアロ8」はオールアルミ製のシャーシを持ちながらも、ボディフレームはお得意の木製フレームを採用しているといった具合。まっ、多くはないけれど木製の構造体を持ったクルマは現代でも確かにあるのです。先の戦争(いったいいつの戦争のことじゃい!)前まではもっとたくさんの木製クルマがあったのだろうな。

 さて、それでは木製の飛行機があったのはご存知だろうか。まあ今でも自作のウルトラライトプレーンなどでは木製のものもあるだろうし、人力ヒコーキの主構造体が「木」だということを聞いたことはあるが、命をかけて死闘を繰り広げる戦闘機に木製のものがあったことをご存知だろうか。これもまた人が初めて空を飛んだ頃の飛行機は大方が木製であったことだろけれど先の大戦、つまり第2次世界大戦の時にも木製飛行機が活躍していたと聞かされれば驚く方も多いことでしょうね。

 イギリス(またしてもイギリス!)のモスキトーという双発の戦闘爆撃機がそれで、機体の構造はカバ(つまり白樺の仲間の木だな)を外側に配しバルサ材を真ん中にサンドイッチしたベニヤ板の、なんとモノコック構造なのです。軽くて強度がある機体はなかなかの高性能で、本来爆撃機でありながら最高速度は600Km/h以上で、ドイツの戦闘機も追いつけなかった程だというのです。我が日本が誇る傑作戦闘機零戦の最高速度が510Km/h、日本全土を焼き尽くしたターボチャージャー付きエンジンを4機装備したB29でさえ最高速度は570km/hですから、その高性能のほどをご理解いただけることでしょう。

 この全木製戦闘爆撃機の優れた点は更にあるのです。それは修理が簡単だということ。試験飛行中に事故で機体に空いた穴を接着剤とネジで応急修理して帰還したという嘘のような話まで残っているのです。でも雨の日に飛んだあとはよく水分をふき取っておかないと茸が生えてきたとか、ってこれは郷秋<Gauche>が考えたつまらない「嘘」です(^^;。飛行機用の格納庫は、ようやく実用になり始めた頃の飛行機は木製帆布張りで、雨から機体を守る必要から作られたというのはホントの話です。
 このモスキートは、当時イギリスにたくさんあった木工所や木工職人を動員して作ったというのです。当時のイギリスにはそれだけの技術を持った木工職人がいたということですね。

 では、日本に木製の戦闘機があったのかと言えば、もちろんあったのですね。戦争末期至り南方からアルミニウムを乗せた輸送船が日本までたどり着けない事態に直面した帝国陸軍は、戦闘機「疾風(キ84)」を木製化したキ106の試作を始めたのです。
 機体はブナ、シナ、カバ材で、主翼にはエゾマツやドマツさらにタイワンヒノキとカバの合板ガ使われたと言うのです。いろんな木の材質、硬いとか柔らかいとか、しなるとか粘るといった特徴を生かしてまさしく適材適所に使ったのでしょう。で、出来上がった試作機は疾風の624Km/hという最高速度に遜色のない605Km/hを記録したとのこと(クルマと同じで戦闘機も加速性能や旋回性能が重要なわけで、最高速度だけを見て優秀な戦闘機だということは出来ないとは思うけれど)。

 この木製戦闘機、試作機が数機出来たところで敗戦となり、結局は実戦で使われることはなかったのだということです。鉄やアルミニウムなどの金属で出来た道具が戦争、つまり人殺しの道具になるのは仕方がないにしても、本来人の心を和ませてくれるはずの樹木が戦争の道具になるというのは、なんともやりきれない思いがしますね。キ106が実戦に使われなかったのはせめてもの救いです。と、ここまで書いてサンテグジュペリと第二次世界大戦時の傑作戦闘機P38ライトニングの関係について書くのを忘れていたことを思い出しました(^^;。またの機会ということで・・・・。


10 Apr. 2004

 ずっと「独り言」をご覧くださっている方の中には、このところの郷秋<Gauche>の興味の矛先が「機械物」からは距離を置き、すっかり「自然物」寄りになっていると思われる方も多いのではないかと思います。
 でも、別に「機械物」が嫌いになったわけではなく、たまたまこのところ「自然物」に力が入っていたということなのです。「機械物」関連で言えば、「サンテグジュペリと第二次世界大戦時の傑作戦闘機P38ライトニング」の関係なども書いてみたい気がしてはいるのですが、今が「旬」といえば、まさしくこちらも旬の話題ですので・・・。

 今年に入ってからの郷秋<Gauche>が近所の森の中をゴソゴソと歩き回っていることは「独り言」の読者諸兄姉には周知の事実。で、別に手ぶらで歩いているわけではなく、カメラをぶら下げて(実は背中のディパックには缶ビール!)歩きまわっているわけです。ですから、なんとなく気になるものがあるとパチリ、パチリ(正確には音だけMINOLTA CLEのカシャッ」とシャッターを押すわけですね。そんな写真がもう750MB分くらいたまってしまい、写真をこのままお蔵入りさせてしまうのももったいないし、横浜にもこんなところがあるんだぞ〜と紹介したいような気もしてこんなWebsiteを作ってみたのです。

http://www33.ocn.ne.jp/~musica/on/index.html

 まあね、首都圏に残された自然のことについてはいろいろと思うこともあるし、自然保護だとかそのためのNPOだとか言い出すときりがないので、ここは純粋に郷秋<Gauche>お気に入りの森の散歩道を皆さんに紹介するという、そんなスタンスで作ってみたものです。郷秋<Gauche>の興味が多方面意わたり、これまでにもこの独り言以外に「長谷川陽子.com」「Gaspar Cassado」といったサイトを立ち上げ、また最近では「CRJ Links」を作ったことも「独り言」をご覧の方は既にご存知のことですが、ここに来て、まったく新しいサイトを立ち上げたわけです。口上はこのくらいにしてまずは「恩田の森」をご覧いただき、皆さんの評価をお待ちしたいと思います。

 とまあ、新しいサイトをオープンしましたなどと書いたわけですが、実は現在のところ恩田の森の正式オープンは5月1日と考えているのです。ですからここでのお知らせは「お得意様内覧会」みたいなものでして(^^;。
 しかし、正式オープンは5/1ですと言ってみたところで、既にプロバイダーのサーバーに載っているわけですからURLがわかればどなたでも見ることが出来るわけですから、そういう意味ではいったい何が「正式」オープンなのだ、ということにもなるわけです。

 まあ、サーバーにUpした段階で正式オープンというのが本筋だとは思うのですが、今回は事前に何人かの方にデザインの問題や「重さ」のチェック、テキストの校正などをお願いする関係で、実は3月末から既にサーバーに載せていたのです。かれこれ3週間程になりますからgooglなどのサーチエンジンにもそろそろ引っかかるようになるのではないかと思います。そうなると私がURLをお知らせしていないくても、少しずつではあっても恩田の森にたどりつく方が出てくると言うことになりますね。

 さて、Websiteにおいての「正式オープン」の定義ですが、基本はiまずInterneに接続されたサーバーにデータが載っていることと、本人が正式オープンだと宣言しているかどうかということでしょうね。本人が宣言するかしないかに関わらず1ヵ月もすればサーチエンジンが拾ってくるようになるわけですが、それでもWebmasterが「まだテスト中だ」というならば、それば正式オープン前のサイト、ということになるのでしょう。
 次の要件は、検索サイトに登録すること、他のサイトにリンクを張ってもらうこと、MLなどで広く知らせること、カウンターを稼動させることなどのうち、いくつかを実行すれば実質的に「正式オープン」ということになるのでしょう。ちなみに恩田の森でも画面上では見えないようにしていますが、本日カウンターを稼動させました。

 今のところは正式オープンを5/1と考えてはおりますが、気まぐれな郷秋<Gauche>のこと、明日の散歩で気に入った写真が2、3枚撮れると、それを載せて「正式オープン」などということも十分考えられることではあります(^^)。
 現在のところは「春」のページしかありませんが季節の移ろいと共に写真も増えて行くことと思います。どうぞたびたびお訪ねいただき、都会の中の森の営みに少しでも触れていただくことが出来れば嬉しいなと思っておます。


29 Mar. 2004

 郷秋<Gauche>の住む横浜の山の中で、いま、桜-ソメイヨシノ-が見頃を迎えようとしています。今日あたりが五分咲きといったところでしょうか。日本人は、ホントに桜が好きですね。もっともへその曲がった郷秋<Gauche>は桜よりは梅が好きだし、同じ桜でもソメイヨシノよりも山桜が好きなことはつとに有名?ですが(^^)。

 さて、最近こんなことを知りました。

「日本中で膨大な数が植えられているソメイヨシノは接ぎ木で増やされるため、すべての木は同じ遺伝子をもち、花や葉の形態はもちろん、同一条件下では開花時期までもそろっている」
                                      (週刊日本の樹木 No.02 学習研究社)

 「その筋」の方の間では常識なのかも知れませんが、いやはや、郷秋<Gauche>は驚きました。日本中にいったい何百万本のソメイヨシノがあるのか知りませんが、そのすべてが同じ遺伝子を持っているとは。
 私も経験的に「このあたりでは、あの桜が一番早い」という木を知っています。でもこれは、近くの木と比べて単にその木がある場所の日当たりがいいとか、風が当たらないとかいうことによる差だったのですね。

 そう言われてみれば、桜並木は(もちろんソメイヨシノの、ということですが)、確かに、一本残らず、一斉に開花しますね。たとえば銀杏並木は、綺麗に色づいた木があるかと思えば、ところどころに青々として木が混じっていたりする。ソメイヨシノと違って銀杏の木は、それぞれの木がそれぞれに少しずつ違った遺伝子を持っているということなのですね。

 さて、ここで郷秋<Gauche>はあることに思い至ったのです。これまで日本人の桜好きはその「散り際の潔さ」によって説明されていたけれど、ひょっとして別の理由があるのではないかと。

 郷秋<Gauche>は、こう考えたのです。
 すべての木が同じ遺伝子をもち、常に同じことを考え、常に同じ行動をする桜。隣の木の蕾が膨らめば、私の蕾も膨らむ。隣の木の花が満開になれば私もまた満開になる。隣の木の花が散れば私もまた散る・・・。どうです、ソメイヨシノの行動パターン?は日本人の行動パターンとそっくりだとは思いませんか。

 誰かがヴィトンのバックを買ったから私も買う。誰かがミニスカートにしたから私もミニ(古い!)。ホントはビールが飲みたかったけれど、みんながソフトドリンクだったから我慢してジンジャーエールを頼んだ。隣の人と同じ遺伝子を持った日本人はみんな同じ時に同じことをする・・・。隣の人と同じことをしてるいればまず安心。そんな日本人の行動パターンとそっくりのソメイヨシノを知らず知らずのうちに愛でるようになってしまったのではないかと。あー気持ちが悪い!

 まったく同一の遺伝子を持つソメイヨシノと違い、ヤマザクラをはじめとする野生種の桜は他の木との交配によって世代交代のたびに遺伝子の組み換えが自然に行われ、そのために花の色や若芽の色などが木によってまちまちなのだというのです。なんと素晴らしい個性の発露ではありませんか。
 そんな個性のある山桜が好きで、いっせいに咲き出しそして散るソメイヨシノが嫌いな郷秋<Gauche>は、やっぱり「ソメイヨシノ的」な社会には馴染めないのだな。人里離れた山の中でひっそりと咲くか・・・。

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横浜の、ソメイヨシノ


4 Mar. 2004

 今年に入ってからの里山歩きと共に20数年振りの「写真熱」が再発してしまった郷秋<Gauche>は、新しいカメラが欲しくてたまらず、メーカーからカタログを送ってもらったのですがカタログに書いてあることが難し過ぎて理解出来ずに困ってしまいました。
 以前から使っていて全幅の信頼を寄せているNikonのカタログを取り寄せたのですが、まずデジタル方式一眼レフのカタログの内容を理解するのにおおよそ1時間もかかってしまいました。それと同時に参照していたレンズのカタログに至ってはかれこれ2時間もかかってようやくおぼろげながらその全容がわかりつつある、と言ったところです。

 なぜレンズのカタログの内容がわかり難いかと言えば、私がフィルム式一眼レフ、それもマニュアルフォーカスのカメラしか知らないことが主たる原因なのです。
 私が写真に夢中になっていたのはオートフォーカスの一眼レフが出現する前のことです。さすがにTTL(Through The Lense)の露出計が内臓されてはいましたが、露出も自分で合わせていたのです(PENTAX SP。露出計の付いていないSLも使いましたが、明るさと絞り・シャッタースピードの勘を養うのにはよいカメラでした)。絞りとシャッタースピードの両方を自分で決めるわけですから、常に被写界深度と手振れの可能性をハカリにかけて、自分の目でピントを合わせてシャッターボタンを押していました。絞りを決めればシャッタースピードを自動的に調整してくれるカメラに替えた時(Nikon EL)には、その先進技術に驚いたものです。

 ところが今では露出は当然で、フォーカスも自動的に合うのが普通で、これならサルでも写真は撮れる。でも、サルにはこんな写真は撮れない。オートフォーカスではピントが合わないのだな。
 どうしてかというと、この写真のテーマである「芽吹いた木の芽」が小さ過ぎるために、カメラの頭脳が「ピントを合わせるべき対象物」として捕らえられずにバックの木立にピントを合わせてしまうからなのです。では、どうやってこの写真をと撮ったかと言えば、種明かしをするとこんな具合です。特別に難しいことをしているわけではないのです。

 木の芽のすぐ後ろに左手を持ってゆき、ファインダーの中央で木の芽と手のひらを捉えます(ファインダーの中央部分にあるものにピントが合う)。右手でカメラのシャッターボタンを半押しにしてピントを合わせ、左手をどけてからシャッターボタンを押し切ります。これで木の芽にピントが合った写真が取れるのですが、右手だけでカメラを持ちシャーターンボタンを押す時にどうしてもカメラがブレてしまいます。だからこの写真もピンとは合っているけれど、微妙にブレでいるのです。なかなか難しい。

 話が逸れてしまいましたが、なぜレンズのカタログを読むのに時間がかかるかといえば、デジタル一眼レフに使えて、なおかつ絞りとピントを手動でも操作できるレンズを特定するのが難しいからなのです。Nikonの場合、カメラ本体とレンズを結合させるマウント自体は「Fマウント」という名機「Nikon F」以来のものだけれど、今では露出に関する情報、オートフォーカス機構など複雑なデバイスが組み込まれており、「Fマウント」ならどんな組み合わせでも使えるというわけではないらしいのです。ましてやデジタル一眼レフ専用のレンズはフィルム式一眼レフには使用できないらしい。古いフィルム式カメラのボディ2台とマニュアルフォーカスのレンズ4本も何とか活用したいのですが、どうも難しそうですね。

 いまイイナと思っているカメラに標準装備のレンズ本体には絞りのリングが付いていないらしい。マニュアルで絞りは選べないのか?これでは「ボケ味」を自由に選べないことになってしまいますから、なにかレンズの絞りリングに代わる機構がカメラ本体に用意されているのだと思のだけれど、果たしてどうだろうか。その代わりといっては何だけれど、オートフォーカス稼動中でも強制的にピントリングを回せばマニュアル優先でピントが合うようだから、まっ、郷秋<Gauche>の好みに合うかな?
 というわけで、予算もないので買えるかどうかもわからないけれど、カタログとにらめっこの郷秋<Gauche>なのでありました。


29 Feb. 2004

 2月最後の穏やかな休日、郷秋<Gauche>はまたまた里山歩きにでかけて来ました。今日は自宅からほんの15分ほどのところにある雑木林と竹林です。竹林が予想以上に多いのには驚きました。竹の子のシーズンを前にしての手を入れたのか、たまたま加工用の竹材として出荷したのかはわかりませんが、その多くは綺麗に手入れがなされていました。そういえば青葉区鉄町(くろがねちょう)に竹細工の店が2軒ほどありますが、こうした地元産の竹を加工して籠などを作っている店なのでしょうね。
 今日は春本番に先立ち早くも咲き出した小さな野の花をご紹介いたします。

写真をクリックすると大きなサイズの写真をお楽しみいただけます。

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28 Feb. 2004

 今年に入ってから幾度か森の中を歩いて来たのですが、歩くたびに冬の森っていいなぁとつくづくと思うのです。ありとあらゆる「緑色」の競演が楽しめる春から初夏にかけての森もいいし、紅葉の時期もいいのですが、やっぱり私は冬の森が好きです。特に冬の雑木林が。一年の務めを終えすっかり葉を落としながらも、新しい春のための若芽をその体内に育み、それでいてそんな素振りをほんの僅かも見せることもなくひっそりとたたずむクヌギやコナラの林が好きなのです。
 里山は里の人々と共生する山や森です。里人は森から山菜や茸、薪や落ち葉を採り栗を拾い、時に貴重な蛋白源としての兎やイノシシを獲る。その代わり里人は時に下草を刈り枝を払い豊かな森を守るのです。

 冬の森を歩きながら、ふと宮沢賢治が里山と里人の共生の様子を書いた短編があったことを思いだしました。家に帰って早速その短編を探してみたかったのですが、他の用事があり探すことが出来ませんでしたが、今日、ようやく見つけて読むことが出来ました。
 それは『注文の多い料理店(1924(大正13)年刊行)』に収められている『狼森と笊森、盗森』です。私が持っている『注文の多い料理店』は角川文庫版ですが、図版1ページを含んで僅か14ページのごく短い童話です。

森に囲まれた小さな野原に4人の百姓がそれぞれの家族を連れてやって来る。地味がそれほど悪くないことを確かめ、この土地に住むことを決めた後で、百姓たちは森に向かって許しを請う。

<前略>


そこで四人の男たちは、てんでに好きな方へ向いて、声を揃えて叫びました。
「ここへ畑起してもいいかあ。」
「いいぞぉ。」森が一斉にこたえました。
みんなはまた叫びました。
「ここに家を建ててもいいかあ。」
「ようし。」森は一ぺんにこたえました。
みんなはまた声をそろえてたずねました。
「ここで火たいてもいいかあ。」
「いいぞぉ。」森は一ぺんにこたえました。
みんなはまた叫びました。
「すこし木貰ってもいいかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたえました。


<中略>

その人たちのために、森は冬のあいだ、一生懸命、北からの風を防いでやりました。

<中略>


みんなはうちに帰ってから粟餅をこしらえてお礼に狼森へ置いて来ました。

                                  『注文の多い料理店』角川文庫(1996年)より

注:最後の粟餅を狼森に置いて来る件は、直接には狼が子供たちにご馳走したことに対するお礼であるが、全体を通して読めば、狼は森に含まれるものであり、粟餅は森に対するお礼であることがわかる。

 森と人とが共生のための契約を結ぶのです。ここで注意すべきは「すこし木貰っていいかあ。」ではないでしょうか。木を根こそぎ切り倒して使うのではないのです。自分たちの生活のために必要最小限、つまり再生可能な範囲の木をすこしだけ貰うことの許しを得、そして許されるのです。森との契約の範囲で人は畑を起こし木を切る。その契約を守る限り森は人を守ってくれるのです。人と自然との契約、共生という考え方を賢治は今から80年も前に『狼森と笊森、盗森』において明確に示しているのですね。

 『狼森と笊森、盗森』からの80年間、人は森との契約を踏みにじってきました。海との契約も川との契約をもまた、踏みにじって来ました。そうして人は人を中心とした世界を造ってきたのです。しかしそのことが多くの問題を引きこしてきたのは皆さんご存知の通りです。人もまた自然の一部であるならば、自然との契約を踏みにじることはやがて自分の存在そのものをも危うくすることだと言うことに気づかなかったのです。そしてようやく今頃になって気づいたのですね。
 気づくのが遅すぎたかも知れません。でもまだ間に合うと言えるかも知れません。私は「まだ間に合う」に一票入れたいと思います。そして私にできることを―それはほんの小さなことですが―始めたいと思っています。

 『狼森と笊森、盗森』の全文は「郷秋<Gauche>のおもちゃ箱」の姉妹サイトである「恩田の森」 http://www33.ocn.ne.jp/~musica/on/episode0.html に掲載しておりますのでご興味をもたれた方は是非ご一読ください。


24 Feb. 2004

 このところすっかり「里山歩き」にはまっている郷秋<Gauche>は、今日も仕事をサボって歩いて来たのでした。って、誤解を招くよな。元へ、人様が休んでいる土日に仕事をした代わりの休みの日に里山を歩いて来たのでした。里山と言っても勿論地元の横浜市緑区である(郷秋<Gauche>の地元は正確には青葉区だが、青葉区は10年前に緑区から分離してできた新しい区。つまり緑区も郷秋<Gauche>の地元ということ)。
 実は先週の土曜日にも緑区内の里山を歩いてきたのですが、こちらは愛好者には随分と有名な場所であること、かなり広い場所なのでまだ全体を把握していないこと、四季折々の変化を見極めたいなどの理由によりあえてご報告しなかったのでした。以下は今日歩いてきたのはこんなところです、という写真日記です。

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 郷秋<Gauche>の306が世話になっているPeugeotのディーラーから400m程先にある階段を上るとすぐに雑木林が見えてくる。林の際までマンションや住宅が建っているが2、30m歩くと雑木林の中にこんな道が現れる。人の手が入っていないように見えてもちゃんと人の手が入っているのが里山。だから歩く人がいる。だから道があるのだな。

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 さらに200m程歩いたところにある谷。このあたりは杉を中心とした常緑樹の林なのだが、この場所にだけやけに倒木が多いので良くみると、自然倒木とチェーンソウで切り倒した木とが半々。他の場所ではほとんど倒木を見なかったのにどうしてこの谷だけ・・・。

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 一つ上の写真の右手奥の斜面をよじ登りしばらく歩くと明るい雑木林にでた。そう、冬の雑木林は明るいものなのだが、この写真を見て「あれっ?」と思われた方はおありだろうか。
 お気づきになられない方にご説明しよう。すっかり葉を落とした冬の雑木林の地面は木々が落とした葉で厚く覆われているはずなのであるが、この雑木林には落ち葉がまったくなく、ところどころに落ちた枝とクマザサがまとめて積み上げてある。
 くぬぎの落ち葉は最も優れた腐葉土となる。厚く降り積もった落ち葉を腐葉土にするために、近くの農家が集めていったのである(まず、間違いなく)。里山はこのように肥料にするための落ち葉を集める場所でもあるのだ。春には筍を夏には山菜を採る。秋には茸そして冬には落ち葉と薪を採る。そして時には山鳥をまた兎やイノシシをも獲る。このように里山は里の人々の生活を支える物資の供給源なのである。

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 雑木林を更にしばらく歩くと谷戸に出た。農家が3件。裏山の紅白の梅が美しい。写真の左側に白い線のように見えているのは、東名高速道路高架橋の防音壁である。横浜町田インターから上り方面に入ってすぐ右側に見えるのが、実はこの写真の里山、雑木林なのである。

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 都市部の農地が後継者不足から荒れるに任せていることは良く耳にするが、今日訪ねた地域では農業が成り立ち得ているように見えた。勿論その実情までは知る由もないが、谷戸の一番低いところに位置する田、そして雑木林の際まで良く手入れされた畑、写真では紹介していないが大規模なハウスを見る限りでは、都市近郊の農家として継続的な営農がなされているようである。

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 実は306のフロントブレーキのローターとパッドを交換してもらっている間、僅か1時間半の里山逍遥だったのです。今日歩いて来たのは緑区の西の端に位置し東名高速と横浜環状4号線に囲まれた600m*300m程の雑木林とそれにつらなる部落です。この部落は、実は1月27日に紹介した黒うさぎがいた部落なのです。残念ながら今日はウサちゃんには会えませんでしたが、1ヶ月ぶりに里山の自然に接しリフレッシュした郷秋<Gauche>なのでありました。


16 Feb. 2004

 今日の神奈川新聞一面のトップは「里山再生を推進」という記事であった。
 里山。近頃良く目にする言葉であるが、広辞苑によれば「人里近くにあって人々の生活と結びついた山・森林」なのだという。広辞苑を引くまでもなくすんなりと耳に入り、その意味もなんとなく理解できる(ような気がする)昔からある言葉のように思えるが、実は比較的最近の造語なのだと言う。

 調べてみると「里山」という言葉を最初に使ったのは、京都大学名誉教授の四手井綱英氏とするのが定説で、1955年頃に「深山」「奥山」に対して人の住む里に近い山(農用林)を「里山」と命名したのだという。最近の造語である証拠は確かにある。1998年刊行の広辞苑第5版にはあるが、1991年刊行の第4版には「里山」の語は存在しないのである。つまり1955年頃に四手井氏が提唱した「里山」という言葉が1990年代以降に認知され今日に至ったと言うことになろう。
 ただし、
1759(宝暦9)年に書かれた「木曽山談義」の中に「村里家居近き山をさして、里山と申し候」と、「里山」という言葉が使われているとの指摘もあり、果たして四手井氏の造語であるとの断定は出来ないが、いづれにしても「里山」という言葉とその重要性を広く訴えた四手井氏の功績が大であることに変わりはなかろう。

 さて、この里山でるが具体的にはどのようなものかと言えば、関東地方においては山里に連なるブナを中心とした「雑木林」といって差し支えないだろう。更にはこの雑木林と一体となる里、つまり集落をも含め里山と呼ぶことも多いようである。
 昨年の4月14日に郷秋<Gauche>が訪ねた「里山」のことを書いたのを覚えている方はおられるだろうか。またつい半月前に訪ねたところも「里山」といっても良いだろ(紹介している写真の最初の3葉を里山というにはいささか躊躇もあるが、あとの2葉はまさに里山である。この地区については遠からずあらためて紹介することができるだろう)。

 前置きがいささか長くなったが、件の記事によれば神奈川県が「農家の後継者難などから荒れるに任せた状態となっている里山再生に乗り出す。2004年度予算案に435万円の事業費を新たに計上(中略)08年度までの5年間で城山町内をはじめ12ヶ所約600ヘクタールの里山保全を目指す計画」なのだという。まったく結構なことである。予算も1桁か2桁増やしても良いのではないかと、郷秋<Gauche>は思う。

 里山は心を和ませてくれる。疲れた心を癒してくれる。だからこそ郷秋<Gauche>は横浜にあって里山の風情を求めて歩くのである。田の畦を歩く時、雑木林を踏み分ける時、大楠を見上げる時にこそ真の心の安らぎを得ことができる。しかしこのこと(場所)を多くの方が知り、里山に押しかけたとすると、そこは里山ではなくなってしまうのだな。「里山」というテーマパークになってしまう。横浜に残された、里山と呼んでいい場所の広さに対して、人口が余りにも多過ぎるのだ。
 いつまでその姿を保つことができるのかはわからないが、横浜にも僅かではあるが里山が残されている。そんな里山を折を見て紹介してゆきたいと思っているので興味をお持ちの方は楽しみにお待ちいただきたい。


11 Feb. 2004

 風もなく穏やかに晴れわたり、本当の春がそこまで来ていることを感じさせるそんな休日、梅の花を探しに湯河原まで出かけました。どこに行くにもクルマの郷秋<Gauche>が、今日は珍しく電車とバスで出かけたのでした。

写真をクリックすると大きなサイズの写真をお楽しみいただけます。
 
040211_02s.jpg (21301 バイト) 行き先は湯河原の「幕山公園」。JR湯河原駅からバスで10分程のところにある山間の公園である。バスは駅を出るとすぐに谷筋の道を上っていく。バスの終点から2、3分歩くと目指す幕山公園。谷と右側(南)の斜面を公園として整備したものであるが、その斜面がすべて梅林となっている。
040211_07s.jpg (23711 バイト) Websiteの案内では三分咲きとのことであったが、咲いているのは紅梅が中心で白梅の多くはまだ蕾であった。小田原から湯河原に向かうJRの車窓からは7、8分咲きの梅をそこここに見ることが出来たが、湯河原と言えども海抜626mの幕山の裾野に広がる梅林は海岸沿いと比べると開花が遅いようである。
040211_04s.jpg (21499 バイト) 八重咲きの紅梅。この梅林の紅梅はほとんどが八重咲きの品種であった。紅梅は白梅よりも開花の時期が遅いものと思っていたが、八重咲きのものはむしろ白梅よりも早く開花するようである。八重咲きの紅梅は華やかではあるが、白梅の気品には及ばない、と郷秋<Gauche>は思うのだがいかがだろうか。
040211_08s.jpg (28394 バイト) 梅林に着いて一わたり見て回ったところで、梅林の斜面中ほどの陽だまりで弁当を広げた。やけに近代的になってしまった小田原駅で買い込んだ大船軒の「鯵の押寿司」。口直しに赤しそ巻きが入った東華軒のものも捨てがたいが、今回は大船軒の特上!を奢った。ビールは勿論モルツ。
040211_05s.jpg (23768 バイト) 白梅。品種によるのか、たまたま風の当たらない場所なのか、いっぱいに花をつけている木もあるが、それは例外的。ようやく最初の一輪が開き始めたと言うのが白梅の平均的な開花の具合であった。梅は桜と違い、寒気の中で最初の一輪が花を開いた頃が凛として美しい。
040211_06s.jpg (23385 バイト) この紅梅も八重咲き。梅林はほぼ真南向きの斜面。梅の花の写真を撮ろうとすると多くの場合が逆光となってしまうが、その代わりにバックが綺麗に霞んで花を引く立ててくれる。ただしオートフォーカスのデジタルカメラでは小枝の先の目指す花にピンが合わないという難しさがある(若干ピンが甘い言い訳です)。

 
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湯河原駅午後三時半のやけに長い影。梅の花を探しに行った短い旅も終わりである。

27 Jan. 2004

 今日は、昨年末に人様が休んでいる日に働いた代わりの休日。1月とは言え風もなく穏やかな陽気に誘われて、春を探しに自転車でふらりと散歩に出てみた。

写真をクリックすると大きなサイズの写真をお楽しみいただけます。
 
040127_01s.jpg (17538 バイト) 郷秋<Gauche>の住む横浜でも、探してみればまだまだ里山の風情を楽しめる場所が残されている。昨年の4月に訪ねたあたりはまさに「里山」であったが、今日訪ねたのはなだらかな丘陵地帯ある。これまでも幾度となくクルマで走っている道をほんの少し逸れただけでこんな景色を目にすることが出来るとは思っても見なかった。まさに自転車散歩の「妙」である。
040127_02s.jpg (22517 バイト) 立春まではまだ1週間あるが、横浜では梅の花の蕾もこもまで膨らんできている。立春とは言え、まさに暦の上のことであり、本当の春の訪れまでには今しばらくの時間がかかりそうだが、陽だまりの木々はわずかな陽の光を毎日少しずづその身の内に蓄えているのである。1週間後には芳しい花を開いているのかも知れない。
040127_03s.jpg (17737 バイト) 横浜に限らず、首都圏では本職がきちんと手入れをした畑を探すのがなかなか大変である。宅地の間に時として僅かな畑を見ることがあるが、その多くはほんの数坪ずつに区画分けされた日曜菜園であることが多い。今日訪れたのは本格的な畑である。キャベツ、白菜、大根などが作られていたようだが、いづれも収穫の時期を過ぎていた。
040127_04s.jpg (31505 バイト) 「横浜の黒うさぎ」。最初は猫がいるのかと思ったがやけに耳が長いので、良く見てみると兎であった。
野うさぎなら毛は茶色のはず。毛皮用に飼育されていたものが逃げ出し野生化したものでもあろうか。カメラを向けても逃げる気配もなく、日当たりの良い場所に生えた草を盛んに食んでいた。
040127_05s.jpg (27294 バイト) 宅地にするにはさすがに急峻に過ぎる山肌に竹林が残されていた。手前は田んぼ、竹林との間には護岸工事がされて用水路と化した川が流れている。ちょうど雲の間から顔をのぞかせた太陽が竹林の手前の裸木を輝かせていた。この竹林も数年の後には宅地になり、建売住宅が軒を連ねるのであろうかと思うと残念でならない。

25 Jan. 2004

 ここ数年、1月も今頃になると必ず思う。「どうしてこんなに時間が経つのが早いのだろうか」と。新しい年が始まったばかりだと思っていたのにもう月末、来週の日曜はもう2月である。何ゆえにこんなに早く時間が過ぎてゆくのかについては、ちょうど1年前に「郷秋<Gauche>的考察」を書いた。1年前の同じ頃にも同じことを考えたのだな。今年は更に早くなった感じがするぞ(興味のある方はこちらをご覧ください)。

 さて、あっという間に過ぎてゆく時間を無駄にするわけには行かないと、昨日からどこかに「出かけねば」という脅迫観念に駆られていた郷秋<Gauche>は、出かける先としていくつかの案を考えた。

 1.小田原あたりに探梅(咲いているかどうかわからないが、ひょっとすると咲いているかも知れない梅の花を探し)に行く。
 2.久しぶりに渋谷のHMVに行く(最近はもっぱらネットショッピング)。
 3.羽田空港に飛行機を見に行く(最近、郷秋<Gauche>のヒコーキに対するボルテージが上がっているのはご存知の通り。
   お気に入りのリージョナルジェット CRJのリンク集まで作ってしまったほど。昨日デザインを変えたので見てください)。
 4.三浦半島一周のドライブに出かける(最近通勤にしか使っていないので306のエンジンを3000回転上以回していない!)。

 で、どの案が採用になったのかと言うと、全部「ボツ」。東急田園都市線の宮崎台駅に隣接している「電車とバスの博物館」まで、なかなか会えないでいるYS-11に会いに行ったのでありました。

 東急田園都市線の宮崎台駅、何故こんなところにYS-11があるのかその理由は良くわからないが、地上を走る乗り物の博物館に、他の乗り物の例としてヒコーキがあってもそれほど不思議ではない。新聞の博物館(ニュースパーク-日本新聞博物館)に双発のビジネスジェット機展示されているよりは、ずっとわかりやすい(実は新聞社の元取材用機)。

 さて、そのYS-11は、TDA(東亜国内航空、今のJAS)のJA8662「なると」である。ただし、展示されているのは機首の部分だけ。このところYS-11の退役が進んでいるが、この「なると」は15年前にリタイヤしている。もっと詳しく言えば、1988年1月10日、米子空港でオーバーラン、中海に突っ込む事故を起こし翌年登録抹消(廃機)されたものなのである。その機首部分だけがどういう経緯でこの博物館に展示されているのかその経緯はわからないが、博物館が高津駅にあった当時の1991年に展示されたのだという。

040125_01.jpg (13904 バイト)040125_02.jpg (10678 バイト)

 「なると」の実際の操縦桿を使ってのフライトシミュレーションができるよになっている。左上の写真では機体全部があるように錯覚されるかも知れないが、あるのは機首部分、搭乗用のドアの後ろの窓1つ目までの部分である。

 YS-11はローカル路線のジェット化が進んだことと衝突防止警報装置が搭載されていないために日本の空から次々に退役している。昨年にはANKのYS-11が全機退役し、現在では九州地区を中心に運行しているJACの12機だけとなっており、これも2006年まで全機退役が決まっている。郷秋<Gauche>としても、あと2年のうちにはなんとしてでも乗ってみないわけにはいかないのである。もっともプーケットに行けば元ANKのYS-11が飛んでいるのでもう10年くらいは乗れるのではないかと思う。

 「電車とバスの博物館」は東急田園都市線宮崎台駅改札口からすぐのところにある。東急の電車とバス実車の展示、HOゲージパノラマや、電車運転シミュレータを楽しむこともできる。YS-11のシミュレータはPCレベルのもののようだが、電車(8090系)のそれは、田園都市線の運転台からの実写映像が3面スクリーンに表示される臨場感あふれるものであった。乗り物の好きな子供と元子供がしばし楽しめる博物館である。

040125_04.jpg (15766 バイト) イベント舘に展示されている懐かしい電車(モハ510形)

東京急行 「電車とバスの博物館」 入場料:大人100円 子供50円 Website


20 Jan. 2004

 一昨日、父の実家の夢を見たのをきっかけに古い田舎宿の主に建物について書いてみたが、よくよく思い出してみるとどうも記憶が不確かなところがある。これから先になるとますます記憶が定かではなくなって行きそうなので、父の実家での食べ物の思いでもこの際記しておくこといしよう。
 田舎宿とは言え旅館であるから、食べ物の思い出と言えば勿論美味しい記憶である。

 私が生まれてから小学校三年生まで住んでいた白河から東舘までバスと汽車とを使って行く。バスは昨年五月二十七日に書いた国鉄バス「白棚線」である。当時住んでいた家からは、白河駅始発のバスの最初の停留所である「昭和町」が最寄のバス停で、ここから国鉄水郡線の磐城棚倉駅までは一時間程であったように記憶している。棚倉で一、二時間に一本程度の水郡線の汽車に乗り三十分程で東舘に着く。待ち時間も含めると白河からは二時間程であろうか。
 「汽車」と書いたが、当時はそう呼んでいたと言うことであり、正確な意味での汽車ではない。少なくとも当時の福島県では鉄道を走る乗り物はすべて汽車と呼んでおり、先に「汽車」と書いたものも正確にはディーゼルエンジンで走る気動車である。通常は二両編成であったが、三両連結の汽車がプラットホームに入って来た時は大喜びであった。

 東舘に出かけるのは大概において法事、彼岸、夏休みなどであったが、食べ物で思い出すのはまず彼岸の時の「おはぎ」と炊き込みご飯である。おはぎは作るのを手伝ったこともあった。手伝うとはいっても、粘土遊びよろしくこね回しているだけで、出来上がったものはとても人が食べられるような代物ではなかった。炊き込みご飯は大きな釜と昔ながらのとかまどで薪をくべて炊いていた。炊き上がると釜からやはり大きなお櫃に移し、更にそのお櫃を外側に白い布が張られた保温用の籠に入れておくのだった。

 夏に出かけた時の楽しみは何と言っても「かき氷」である。これが楽しみで東舘に行ったと言っても過言ではないほどである。夏休みに那須屋に行くと、伯母が「良く来たね、暑かっただろう。かき氷でも食べるかい。イチゴにする、それともメロン?」と聞いてくれるのが常であった。そして伯母は下駄を突っ掛けて向かいの八百屋に頼みに行くのだ。数分後にいくつかのかき氷を岡持に入れて八百屋の小母さんが持ってきてくれる。かき氷の出前である。

 鮎と「あかはら」(ウグイ)も懐かしい。伯父が久慈川で自ら網を打って獲り、一昨日書いた囲炉裏で焼くのだ。久慈川はその源を福島・栃木・茨城の県境にまたがる八溝山(1,022m)に発し、棚倉を経て水郡線沿いに下り茨城県に至り日立市で太平洋に注ぐ一級河川である。いまでは投網漁は認められないのだろうが、当時は鮎漁の普通のスタイルであったようだ。廊下に網を広げて手入れをしている伯父の姿の記憶がある。
 宿の親父が、自ら網を打ち獲った鮎をその晩には囲炉裏で焼いて泊まり客に出すのだから、今になって思えば大変な贅沢で膳であったと言えよう。

 当時の久慈川では鰻も獲れた。鰻は竹籠の仕掛けを川に沈めておいて獲っていたようだ。獲ってきた鰻は調理するまで中庭の井戸の脇にある、小さな風呂桶ほどもある丸い流しに入れてあった。従兄弟に掴んでみろと言われては散々格闘するのだが、鰻はヌメリヌメリと逃げるばかりで私には捕まえることが出来なかった。従兄弟がことも無げに掴み取り調理場に持って行くのを驚きながら見ていたものである。鰻は上客に出したのであろう。一度だけ食べさせてもらったのは蒲焼ではなく天麩羅であったように記憶している。

 一昨日も書いたが、漬物も思いでの「美味いもの」である。漬物小屋には大きな樽や甕にたっぷりと白菜やら梅が漬け込んであった。都会からの泊り客が美味いからとお替りすれば、どんぶりに山ほど出して、特に追加の料金も取っていないようであったとは父の言である。そんな大らかな時代でもあったのだろう。家族で泊まりに行った帰りには、この漬物を持たされ、しばらく楽しむのが常であった。

 今はどんな山奥の旅館に泊まっても、夕餉の膳にはまず間違いなく刺身が出されるが、私が子供の頃には刺身は特別の料理であり、日常の生活で食卓に刺身が出されることはまずなかったが、那須屋では時折刺身を出してもらうことがあった。
 私たち家族が泊まりに行っている時にたままた上客がいると、その客用に部落に(多分)一軒きりの魚屋に刺身を注文するついでに、我々の分も取ってもらえることもあった。

 活け花の花器のように仰々しい器に盛られた鮪の大きな切り身をかしこまって食べた記憶もあるが、出された多くが鰹であったようにも思う。従兄弟に連れられて何度か行ったことがあるその魚屋では、さすがに氷の上に魚がのっていたが、その鮮度は今とは随分と違っていたのだろう。鰹の刺身を小丼にいっぱいのおろしニンニクに醤油をかけたものにつけて食べたものである。鮮度の落ちた魚の臭みを消すためだったのだろう。伯父や伯母たちは、きゅうりの糠漬けもそのにんにく醤油につけて食べていた。私が今も鰹の刺身は生姜醤油ではなくにんにく醤油で食べたくなるのはそんな原体験のせいなのかも知れない。

 こうして往時を振り返ってみると、食べ物にまつわる思いでが少なからず記憶に留まっていることに驚く。食べ物とか匂いにまつわる記憶と言うのは記憶の中枢に案外深く刻み込まれているものなのかも知れない。

 一昨日に続き古い古い記憶をたぐり寄せてみたが、果たしてこれらの記憶のどれほどまでが正確なものであるのか、いささか自信がない。特に幼い頃の記憶は、その時の記憶そのものではなく、後になって少しばかりの脚色を交えながら思い出し、更にもう少しばかりの都合の良い脚色と共に記憶の引き出しにしまわれているからである。
 しかしながら、いま思い出す事柄が当時の事実と大きく異なっていることはないであろうし、たとえ事実と若干相違する部分があったとしても、どなたかにご迷惑をかけることでもないだろう。それは私の心の中だけに存在する、私のだけの懐かしい思い出の世界なのだから。


18 Jan. 2004

 子供の頃の夢を見た。父の実家の想い出。

 私の父の実家は福島県最南端にある、最近では「住基ネット離脱」や「合併拒否宣言」で、はからずもちょっと有名になってしまった町にある。なぜこんなことで有名になってしまったのか、私にはまったく理解できないが、ほんのちょっと有名になったからと言って、典型的な田舎町でることに変わりはない。
 矢祭町は、福島県の中央に位置する郡山市と茨城県の水戸市を結ぶJR水郡線のほぼ中間点に位置する。福島県最南端の駅は矢祭山駅であるが、同町の中心に位置するのは一つ郡山寄りの東舘駅(ひがしだて)である。父の実家はその東舘にある。

 父の実家は小さな宿屋である。福島の宿屋と聞くと温泉宿を思われる方が多いかも知れないが、温泉宿ではなく所謂田舎の商人宿である。商人宿とは言え、駅前に位置するのではなく、駅からは大人の足で5、6分のところにあり、部落で唯一の宿屋であった。商人宿とは言え、部落でただ一軒の宿屋であったから、かつては法事の集まりや宴会なども請け負っていたようである。
 父の祖父に当たる人が、栃木県の那須地方から流れて来て、ここで宿屋を始めたのだと言う。宿の名前は「那須屋」。父が四、五歳の時に、現在もその一部が残っている宿の建物ができたと聞いている。

 那須屋は今で言う国道百十八号線に面して建っている。ほぼ南北に通るこの国道の西側にあり、間口七、八間で奥行き裏山まで、間口の数倍はあったように思う。
 通りから間口いっぱいにあるガラス戸をあけて入ると広い土間がある。正面には黒光りのする、良く磨きこまれた廊下が中庭まで続き、廊下の右側が調理場、左側が帳場であった。帳場の奥、廊下に沿っての三部屋程が、私の叔父や叔母の居室、女中部屋であったように思う。

 宿の建物は大きく二つの部分に分かれていた。すでに書いた街道に面した玄関部分と、裏山に面した奥座敷の部分である。街道に面した玄関や帳場、調理場部分の二階は行商の人が泊まっていたようである。富山の置き薬の人が借りきり、替えの薬を置いていたのを覚えている。
 街道に面して三部屋、北側に二部屋、西側の中庭に面して二部屋程の客室があったように思う。この部分の中ほどには襖で仕切られた窓のない部屋が二つ三つあったが、そこは布団部屋で子供の頃の私の格好の遊び場になっていた。

 玄関部分の奥には、比較的上等な座敷のある建物が中庭を挟んで建っている。二つの部分は中庭の北側に位置する廊下で結ばれている。この長い廊下の向こうに一階に三部屋程の座敷、二階には四部屋程の客室があった。一階の一番手前の部屋を祖父母が居室として使っていたが、三部屋はすべて襖で仕切られているので、大きな宴会などはここをぶち抜いて行われていた。
 二階は上客用の部屋であった。手前の二部屋は襖で仕切られていたが、奥の二部屋はそれぞれ独立した部屋で、一番奥は那須屋最上の部屋で五球スーパーのラジオが置いたあった。

 子供の頃、彼岸や夏休みに泊まりに行くと、この二階の一番手前の部屋に泊まったものであった。南側には、やはり磨かれ黒光りする長い廊下が続くが、廊下には窓はなく外に向かって吹き抜けであった。夕方になると雨戸を閉め、朝になると女中が雨戸を開ける。長い廊下の両端にある戸袋まで、ガラガラと雨戸を押す音で目を覚ますのが常であった。

 更にこの奥には別棟の納屋と蔵とが裏山の立ち上がりぎりぎりのところに建っていた。納屋の半分は漬物小屋で大きな樽や甕に白菜や梅干が漬け込んであった。多くの方が想像される通り、この漬物が美味しかったことは言うまでもない。
 蔵の方は二階部分を改造し、随分と年上ではあるが私の従兄弟夫婦が住まいとして使っていた。

 さて、話を玄関部分の方に戻そう。
 正面の土間の左側、帳場の前には囲炉裏があり、真夏を除いては炭がおき鉄瓶が湯気を噴いていた。水は井戸水で石灰分が多かったのであろうか、鉄瓶の注ぎ口は結石で覆われ随分と細くなっていた。囲炉裏の壁の上の方には棚が吊ってあり、白河達磨が三寸くらいの小さなものから一尺五寸くらいの大きなものまで七、八個がずらりと並んでいた。

 正面の黒光りのする廊下の突き当たり右側、二階への階段下には電話ボックスがあった。公衆電話のボックスではない。電話が特別のものであった時代の、小さな「電話室」である。上半分にガラスのはまったあめ色の扉を開けると、正面上方に木製の電話機がついていた。送話機(マイク)は本体についた真鍮の朝顔。受話器が本体の左側にかかっていて、布で包まれたコードでつながったこの受話器を耳に当て本体の朝顔状の送話機に向かった話すのだ。木製の電話機で向かって右側にはハンドルがついていて、これをぐるぐる回して交換手が出るのを待つ。
 交換手が出ると「十番から白河○○○○番お願いします」と言って受話器を本体に戻す。しばらくすると電話機が鳴る。受話器をとると交換手が「東舘局です。白河○○○○番がでています。お話ください」という。ここでようやく本来の相手先と話ができるのである。

 「十番」と言うのは電話番号である。つまり東舘電話局管内で十番目に設置された電話だから「十番」。電話をかけて最初につながるのが東舘電話局だから市外局番はなく、ただの「十番」。白河○○○番というのは白河で洋服の仕立て屋をしていた母方の祖母のところの番号。那須屋に行っての楽しみの一つが、母方の祖母に電話をすることであった。勿論子供の背丈では電話機まで手が届かないから、叔母や女中に抱いてもらったり、茶箱の上に上がったりしてかけたものであった。
 四十年数年前にはこんな電話がまだ残っていたのである。電話室の扉にはまったガラスには金文字で誇らし気に「東舘十番」と書かれていたが、おそらく昭和の初め頃に設置したものであったのだろう。

 残念なことに、街道に面した玄関部分は従兄弟の代になってから取り壊して改築されてしまったが、奥座敷の部分は当時のままのはずである。
 二十年前に叔父が亡くなり、従兄弟の代になってからは二、三度行ったきりである。十年ほど前に町営の宿泊施設ができでからは、商売の方は傾き加減らしい。今となっては改築せず、七十年前の姿のまま、それを売りにした方が商売としては良かったのかの知れない。

 もう一度、子供の頃の記憶を確かめるために訪ねてみたい気持ちと、セピア色の写真ように、このまま記憶にとどめておいた方がいいのだという思いが合い半ばのこの頃である。


16 Jan. 2004

 郷秋<Gauche>の住む横浜でも寒い日が続くこの頃ですが、皆さんお住まいの地方はいかがしょうか。ここ数日、北日本は大変な大雪のようでしたね。新千歳空港では除雪が間に合わず多くの便が欠航したようですが、TVニュースで空港の様子を伝える画面は真っ白で何も見えない状態でした。

 横浜の山の中でもここ数日は毎朝氷点下。今週月曜の夜から火曜の朝にかけてお湿り程度の雨が降ったけれど、そのあとは寒いカラカラ天気続き。これほど寒いなら、いっそのこと白いものが舞い降りて来るところを見てみたいものだですが、叶わぬことでしょうか。そうは言っても、夏の間にスタットレス・タイヤを履きつぶしてしまった今、郷秋<Gauche>の愛車Peugeot306は夏タイヤのまま。雪が降ると、やっぱり困るのです(^^;。

 さて、「独り言」の愛読者のあなたは、郷秋<Gauche>が大の飛行機好きである事は先刻ご承知のことと思いますが、好きが高じてついにこんなリンク集まで作ってしまいました。

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 昨年の旅日記でもご紹介しておりますので、バナーをご覧になられて「ハハーン」と思われた方も約3名ほどはおられたのではないかと思います。クルマもヒコーキも小さいものが大好きな郷秋<Gauche>お気に入りの、ビジネス・ジェットのようにスマートで小さなジェット旅客機、CRJに関するサイトだけを集めたリンク集「CRJ Links」です。

 リンク集というのは、言ってみれば「他人のフンドシで相撲をとる」ようなもので、郷秋<Gauche>的には実はいままであまり感心できないものだったのですが、ここに来て考えが変わりました。たとえ「他人のフンドシで相撲」であったとしても、その情報を求めている人の役に立つならば、リンク集にも十分な価値があるのではないかと。だって、これだけのサイトをさがすのにも随分と時間がかかりますし、サーチエンジンでヒットしたものをただ羅列するのではなく、自分なりの基準で取捨選択するわけです。その手間と時間だけでもかなりのものです。ご覧になる方の時間と手間とを省いてあげられるのだと考えれば、それだけでも十分存在意義はある。なんてね、結局は自分が便利にCRJの情報を見るためのちょっとした工夫なのですが。

 ヒコーキに特別興味がないと言う方にはあえてお薦めはいたしませんが、「嫌いではない」「多少は興味がある」「好きだ」「すごく好きだ」「どうしようもないほど好きだ」「我ながら異常だと思うほど好きだ」という方はぜひ上のバナーをクリックしてみてください。あなたはきっと、CRJという小さなジェット旅客機の虜になってしまうことでしょう(^^)。


4 Jan. 2004

 新年も早や4日。今年は曜日まわりの関係で明日から仕事という方が多いのではないだろうか。かく言う郷秋<Gauche>のんびり過ごした冬休みも、今日で終わりである。
 そんな冬休み最後の日の午後遅く、久しぶりに散歩に出てみた。散歩と言えは最近では自転車散歩(ポタリングと言う言葉がちゃんとある)が多かった郷秋<Gauche>であるが、今日は文字通りの「散歩」。自転車だと相当広い範囲を「散歩」することが出来るが、クルマほどではないにしても止まるのが億劫になってしまう。郷秋<Gauche>の愛(自転)車はロードレーサー程ではないけれど、結構スピードが出るタイプのものなので、ついつい走ることに夢中になり、止まることを忘れてしまう。

 近所の公園の林を抜け環状4号まで下り、駅まで続く商店街を歩く。しばらく歩かないうちにいくつかの店の看板が変わっている。いつの間に出来たのか、通りからちょっと入ったところにレストラン・バーが出来ている。新しいイタリアンレストランが出来ている。歩道まで行列が続いていたシュークリーム専門店は普通のケーキ店に衣替えしていた。
 年末に寄ろうかと思ったのについぞ見つからず、うっかり通り過ぎてしまったのかと思っていたお気に入りの居酒屋はもぬけの殻だった。新しい店子が決まらないのか、こんなに大きな店だったかなと思うくらいのガランとした空間がガラス越しに広がっていた。結構流行っていた店だったけれど、どうしだのだろうか。

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近所の公園にて

 駅ビルに入る店々のショーウインドウを眺めて歩くが、郷秋<Gauche>にはただただ騒々しいばかりで退散。静かな住宅街の中の道を選んで自宅に戻った。自宅に戻り自分で淹れたコーヒーのなんと美味いことか。あれだけの店が軒を連ねていても、最近はゆっくりコーヒーを飲める店がなくて困る。暖かくなった頃にでもそんな店を探しながら、また歩いてみようか。


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